ライターというソルジャーな仕事

肩書なんてと思いながら、肩書はライターになって2ヶ月半。

楽しいは楽しい。仕事で必然のどうしようか悩む対象が「どういう文章なら読みやすいか?」は我ながら本能の悩みに近くてベクトルぴったしの感覚。

 

酔っ払ないながら電車で暇だから見るWeb記事を書くという行為にどれだけの意味があるのかといったら皆無だと思うけど、書いてる人はいる訳で。

AIに代替されないようなエッジを効かせた文章を書こうとしている時点で打倒AIは割と向き合っている。

 

根底はやっぱり笑えることのすばらしさ。どんなに辛い何ヶ月かが続いても3秒横隔膜から笑うことでマインドが一新されることはあると思う。芯を食った観点でほくそ笑むくらいの記事を書きたいと思って仕事をするのは薄給でも良きこと。

 

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西郷どん瑛太は低い声を意識しているし鈴木亮太が太った。

・メルカリで売れた商品の梱包する具材が無い時の本末転倒感はことわざレベル。

法とは願い(らしい)

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世の中で最も破られている法律が道路交通法だとか。

お天道様に見られている感覚で車の来ない信号を止まる時、目の前の淑女が堂々と赤信号で渡ってくると価値観がぐるんぐるんする。

 

法的手続きを総まとめにすれば、法に触れると経済的・身体的・社会的な制裁を受けるはず。本来的には。

だけど、ちゃんと法律の条文を認識できていない。法学部の学徒や法曹界を目指す人がはじめて着実に向き合うイメージ。

 

そう考えるとこわい。これをしたらああなる、のイメージは割と明確なのに、なにをしたらああなるの具体的なプロセスは知らない。

 

法律に救われて、法律に足元すくわれる制度の中生きているはずなのに、大丈夫なのだろうか。

でもおおよそ大丈夫なのは、法律=お天道様の感覚に近しくあってくれてるのだろうか。

キングダムでいうところの、(公的)願いと(私的)願いが隣接しているのだろうか。

 

お天道様に従ったけど法律にはそむかれる価値観があるとややこしい。

 

イメージは、法律に勝負を挑めば挑むほど法律は刃を向けてくる。

法律と距離をとりふんわりとした挙動をとると、法律は猫のようにそっぽを向く。

 

プロポーズ

お題「プロポーズ」

 

お題スロット「プロポーズ」。

 

プロポーズ【propose】
( 名 ) スル
申し込むこと。特に、結婚の申し込みをすること。 「思いきって彼女に-する」

大辞林 第三版)

 

用例の中の彼、思い切ったな~。

思い切ったってことはけっこう五分五分のプロポーズだったのかもしれない。

プロポーズ(告白含む)を五分五分でいける人はすごいと思う。

やはりおおよそ両想いだなとか、OKしてれくれるだろうなとか固まってから申告するタイプなので、負けの可能性がある段階で飛び込める人はすごいと思う。

 

プロポーズは人生の思いやりの結晶で演出するのだと思う。

とことん二人の思い出に沿ったものだったり、とことんサプライズだったり、とにかく思いやりの発表会。

大衆の前でぶちこむのも流行っているらしい。

 

でも一番の思いやりは、ちゃんとプロポーズの受諾 or 拒否を真摯に回答させてあげる環境を作ることだと思う。

数千人が見守るバスケットコートの真ん中に二人で登場し、このフリースローが決まったら告白します!って言ってシュート決めちゃった日には、彼女ぜったい断れないのでは?

圧倒的雰囲気でOKされても僕ならOKと思えない。

 

彼女がNGだったら、いったんワーッて盛り上がる感じで受諾するけど、席に戻ったら「ごめん後でカフェ行こ。」って言って先ほどの異常な空間がいかに異常であったかを説明して1週間再度時間をもらうかな。

 

断る権利を与えるのが思いやりという前提だと、家の中でそれとなくの、99矢部さんの方法を採用しよう。そんなときがあれば。

身体感覚③

いま、スマホで検索したりアプリを活用すればおおよそすべての知識が手に入る。

難しい用語に出会ったり不得手な分野の会話があった時も、究極これまで誰かしらが辿り着いた見解であれば、ほぼ無限に広がっているデータベースがあるので、検索できさえすればそこに到達できる。

 

確かに、理系の話や哲学の話を例にとったとして、検索結果だけ知れても意味がないかもしれない。なぜなら、なぜその帰結になったのか、その言説の背景にはどんな変遷があったのか、などは検索結果として出た言葉だけでは理解などできているはずがない。人に受け売りで話したとしても音読とか伝聞に近い。

 

しかし、あえて究極に、スマホがもっと進化して、とにかく脳内に埋め込められるほど小型化して、理系の話も哲学の話もそこに至った背景まで瞬時に検索し言語化できる機能が備わったとしたら。受け売りか否かも聞き手が判断できないほど検索技術と腹落ちと言語化がアシストされるとしたら。

 

それを埋め込む時代は、「この人物知り~。」という感覚はどうなるのだろうか。たぶんこのチップは英語やフランス語なんかも言語をつかさどる脳に刺激を与えて話せるようにできる。

 

おそらく、積み上げた知識や鍛錬した思考なんかはチップの性能次第でみな平等になる。

検索から結果が返ってくるまでも0.001秒とか東京物語みたくなるので、差が感じられない。

 

としたら、何を知っているかではなく、誰が語っているか。どんな雰囲気の人が語っているか。語る声色がどんなものか。語る表情がどんなものか。語る手をどこに置いているか。

 

そんなことで信頼できる人なのかそうでないのかが決まってくるのだと思う。信頼できるか、というよりは信頼するか否か、のほうが近いかも。

会話の内容ではなく会って数分の間の第一印象でと面接で言うけれど、そういうことなのだと思う。

 

発言するとき臆していなかったり、あーとかえーとか挟まなかったり、胸を張って座っていたりとか、そんな人対人のフィジカル的な機微で判断が行われることになるのだと思う。

 

政策はあまり差異が見えないけど、石破さんここが少し弱い気がする。

好きなのだけど。

徒然(3)

大坂なおみ

まず、"大阪"でないことに注意。先生が出しがちな問い。

おめでとう。過去ブログで書いた「師であるとは。」に結構なぞらえられると思う。

発言がかわいらしい。でも機嫌が悪いときは少し怒っちゃうかも。

 

■北海道地震

南から北から浜辺の真ん中に立てた旗を倒さないように周りから攻められているようで、やっぱり首都直下が心配。日本の地理的弱点。その時どこにいるかが肝なのかな。

 

■10代

よい。10代で出会った友達は無条件によい。感傷的・過去美化的・未来怖い的理由だけど、よいものはよい。糧。

そこにいた事実。

と思うから次の事実を積みあげたい。

 

■石川県に行ってみたい。誰かしらと。

マウスピースを作りました。

寝てる時に歯ぎしりと寝言が絶え間ないと指摘されかれこれ15年くらい。

指摘元は母だったり兄だったり元XXだったり、元YYだったり。

自分の歯ぎしりで起こされたことはないけれど、直近歯医者に行ったら犬歯をがりがりやっているとのこと。

少しエスパー伊東に似てる先生だったので訝しがったが現状分析に薄めの感謝。

俺にも犬歯があるんだぜとどうでもいい誇り。

寝言はまだ兄と同部屋で過ごしていたころ「戻れ戻れ戻れ!」としきりに言っているとフィードバックをもらったことあり。

絶対的に夢の中でバスケの試合をしておりカウンターをくらっている。

 

マウスピースはシリコン製。違和感の権化みたいなとこある。はめる時気が引き締まる。ボクサーが試合前にはめこむ時のように(想像)。

 

期待した。マウスピースをはめて寝る初夜。

目覚めたとき、悩まされていた鈍い眠気が一気に吹き飛んでいる理想を描いた。

 

が、翌朝起きぎわのスヌーズ8回。

 

杉内引退か。

お笑い論①

前回のブログで、主語を大きくすることの弊害を書いたのに、無視して題名は大きめで設定してみる。

「お笑い論①」(今後、継続すると思って①。)

 

まず。いや、わかりません。わかったふりをすることすら怖いので、冒頭でわかりませんと書いておきます。

そもそもどれだけ均質化された価値観をもつ日本人同士であっても、笑いのツボは人それぞれなので、あまりそれを一般化したところで意味合いは薄いと思っています。

 

なので、個人的な見解で。かつ、具体例をもって。

例示する時点で、それは私がおもしろいと思っているものとして抽出されているものです。なので、それはそもそもおもしろくなくない?は、無し目でお願いします。

 

■千鳥のindeedのCM

youtu.be

観たこともあるだろうし、リンクした動画で改めて観てもらうことになったのかもしれないが、これはやっぱりおもしろいと思う。

あまり爆笑してしまうという類ではないかもしれないが(私は初見は爆笑した)、なんかフフッてなってしまう。

フフッてなる点の箇条書きと、だからかなって思う理由。

 

・まず、大悟とノブの仲の良さがにじみでている。

 →楽しそうにしているグループをはたから見ていると楽しく感じる現象。混ざりたい。自分もそんな、二人の世界観で幸せそうにできるパートナーに憧れる。実際、メイキング映像みると、取り巻くスタッフは笑い声ひとつ発せず、二人だけの世界。

・大悟のボケがどうしてボケになり得るか、一瞬とらえきれない。

 →約4~5秒の尺しか与えられておらず、これまで蓄積した二人の関係性やその他背景があったうえに成り立つボケは不可能。旅館なのか、すし屋なのか、タクシー内なのか、だけ。がゆえに、その3シーンの情景に追いつくためだけに視聴者は1秒くらい要する。その1秒後、やっと理解した情景に対し、一瞬そぐわない一言を大悟が発する。大悟からしたらかわいそうだが、そのボケでは笑えない。笑えないというか、観ている側が追いつかない。

・ノブのツッコみが1センテンスながら状況説明と"否"を兼ねる。

 →置いてけぼりにされた視聴者向けに、「大悟の不可思議な発言は、やはり長らくその情景にいた相手(ノブ)からしても、おかしい」ということをノブが代弁してくれる。代弁してくれることで、「やっぱ、そうだよね!」の共感が視聴者に訪れるとともに、「そうであるなら、その発言おかしいやろ!」の会話としての否!の代弁も続いてノブがしてくれる。

・声。

 →大悟の声が、明確。ロープがついているか否かが不明な状況でバンジージャンプを飛び降りている感覚が大悟にはあるのだろうと思う。なのに、めっちゃ真っ逆さまに飛び降りる。だからバンジージャンプのスタッフ側(視聴者側)も、「ロープついてるだろ、多分。」と、根拠のない安心感を得る。ボケに頼れる。声が明確だから。そして、ロープがついていようと無かろうと、とにかく下にクッションを何重にも敷き詰めて一命を取りとめようとする役割のノブの声。むしろ逆に、猛スピードで落下してくる大悟を、トランポリンのごとくバネではじき返すほどの、明確なツッコみでの応答。ノブのツッコみの間と声質と発声のスピードが、多くの視聴者の心の声を代弁をする。いや、視聴者は言葉にできていないけど、大悟の一言で発生した心のもやもやを顕在化させ、否!を言語化させ、適切なボイスで発してくれる。ノブがツッコんだあとにわかる。そう、大悟のボケのそこが引っかかってた。

・ツッコみのワード

 →ノブのツッコみワードセンスは光っていると思う。間違いない。だけど、ノブがあのボケを受けた後1秒後に、瞬時にひらめいてあのワードを選択しているのではないと思う。おそらく、大悟とノブは高校生からの同級生ということもあり、ノブからすると、大悟のボケの性質・クセが手に取るようにわかるのだと思う。そして、高校時代からの蓄積で何万・何十万とデータベースが拡張している。もしかしたら、大悟の顔色を見ただけで、ノブにはこのあと発せられる大悟のボケのパターンがわかるのかもしれない。だから、経験値や実績があるから、1秒後にツッコみがでる。しかも、一番大悟のボケを活かす形のものが。かつ、ノブのツッコみがさえていると思うのが、蓄積されすぎたデータを悪用せず、二人だけの閉じられた世界のツッコみをしていないこと。ちゃんと、大悟のボケの特異さを世に伝える観点で、ワードを選択している。あっぱれと思う。

・千鳥というコンビの安定感。

 →これは土台として一番重要だったのかもしれない。お笑いって極論、何を言ったかではなく、誰が言ったかの世界だと思う。何を言ったかの蓄積で、その"誰"になれるのだけど、一度安泰をきずいた"誰"は、観る側の安心感が違うし、"誰"をきずけなかった芸人は、失笑を誘い続ける。千鳥の安心感は、つまりブレイクしたからなのだけど、ブレイクする過程においては、「クセがつよい!」だったのだと思う。大悟のクセの強いボケに対し、ノブはツッコみを重ねていった。重ねていったツッコみは、ボケのクセが強い時点で、それを世間とつなぐインターフェースとして活用している時点で、クセのつよい観点にならざるを得ない。そのクセの強さを磨いていったノブは、他の吉本の先輩の発するボケはクセのまったく無い直球にうつっているのかもしれない。直球が飛んできた場合、ノブのツッコみ(声色・ワード選択)はクセの強い返しになる。そういう道を生きてきたから。それは、ノブからしたら直球の返しだけど、クセの強い返しをされた先輩芸人や視聴者は、クセのある球と感じ、あっさりとリターンエースをとられる。大悟のボケでクセを感じさせ、ノブのツッコみでクセを感じさせる千鳥は、いつしか視聴者からしたら、やみつきになるほどの、クセを放つ"誰"にランクインした存在になったのだろう。

 

AI時代

朝まで生テレビを観た。"激論!“人工知能・AI社会”と日本"がテーマであった。

 

AIを取り巻く世界情勢から日本企業の体質や教育制度、ベーシックインカム等の社会制度と、森永卓郎が童話を書き始めていることなどが議題にあがっていた。

 

落合陽一が発言していた、「介護に関して、機械と人間、どちらに介護をされたいですかと聞くと人間がいいと答える人は多いけれど、おしりを拭くのはウォシュレットかおじさんどちらがいいですかと聞くと大抵ウォシュレットを選ぶ。」という意見は、なるほどなと思う。つまり、いわゆる主語を大きく抽象的な言葉で、さぁ決断を!と投げかければ普通はビビるし現状維持を選ぶけど、ありありと想像できる具体例を、場合によって恣意的な例になることもあるのだろうけど、提示してあげることで初めて決められるってことはあると思う。おしりを拭く強弱・前後などはなるべくボタン一つで決定したい。

 

具体例をだしてあげることでその対象に対する恐怖心を一枚ずつはがしてあげること。

保護されて自然界に戻れない野生動物を、エサをちらつかせながら、一歩ずつ一歩ずつ前に進ませていき、ケージから出してあげる。

 

時代の流れは否応ないものだと思う。

AIが代替していったり新たに創っていったりする領域は確実に増えていくはず。なんかこういう技術面からの大波に、違う価値観によって人間が抵抗しまくり"勝ちきった"みたいなことって無かったのではないか。

だから、どれだけ短期的になのか不明だが、受け入れていくしかないのだと思う。

ほんとの上流、日本としていずれの方向性で、みたいな部分は、やはり政治家とか研究者とか各種の有識者に舵をとってもらうしかない。そういう意味で、従います。それらには。ただ、従いますが、ほんとうに実感を伴う生活レベルへの浸透については、やはり個々人、生活者それぞれのレベルで創意工夫は必要なんだと思う。

 

例えばスマホ

2018年8月についに母親がiPhoneに買い替えた。息子としては、遅いなとツッコみたい気もするし、よく踏み切ってくれたという感慨もあるし、もっとスマホにすることのメリットを強めにインプットしてあげればよかったな、という後悔などがある。

結構抵抗してきたらしい。もちろんガラケーでいることに強いポリシーがあったわけではないし、スマホに対する明確な怖さみたいなものがあったわけでもないらしい。むしろ、母親世代であれ友達もほとんどスマホだったようだし、実際家族で集まってもガラケーなのは母だけであったし、LINEグループみたいなコミュニケーションは取ることができなかった。

だから、早めに変えなきゃとはかねてより思っていたようだ。思っていたんだけど、自分なりの腹落ちのタイミングだったり、自分の思うテクノロジーとの距離感だったり、各種デバイスへの苦手感だったりで踏み込めていなかったのだそうだ。

 

ただ、踏み込んだわけだ。その決断に息子(たち)は全く関与していないし、父も同様だそう。つまり、およそ8年前くらいにスマホが日本でも普及を始めてから、ようやく母親なりの決断と具体的な行動の時が訪れたのだ。

重複するが、テレビでも街中でもスマホばかりだし、息子や孫でさえスマホで何やらやっているし、ガラケーで撮った画質の荒すぎる写真が送信エラーになることに嫌気が指したりなどもあり、ようやく母の中でのスマホ買い替えOKメーターが満タンになったのだと思う。

 

それでいいと思う。次世代テクノロジーの大波には従う。従わざるを得ない。国民とか消費者一般とかそういうくくりでは従うに賛成。賛成なんだけど、じゃあ個人として具体的に行動をいつ起こすかについては、個人レベルに任せていいと思う。

今回の母親の件でいえば、家族としての啓もうが弱かったのかもしれないのでやや反省だが、次のAIでももし同じ種類の決断が必要だとしたら、反省を活かしていきたい。やっぱり個人レベルでいえば、母親世代やもっと上の世代はもうAI時代なるものに適応をあきらめるかもしれない。ただ、適応せざるを得ないのが時代の波になるのであれば、母親の適応を助けるのは政治家でも研究者でもなくて、息子だったり友達だったり、孫だったりになる。身近なかーちゃん・ばーちゃんに、具体的にいうとこういう行動をすべきでその行動の仕方はこうでああで、これはお金かからないから大丈夫だよ、と優しく導いてあげる必要がある。もしかしたら次のOKメーターはダムくらいあるかもしれないけど。

 

カリスマ経営者の決断や超高性能チップによる演算結果で、超上位の部分での生活様式は今後も勝手に決定されていくのかもしれない。

だけど、そこから落ちてくる個人に求められる行動に対する個々人の腹落ちの仕方や理由は、意外とおまかせであることが実態なので、それに対し手を取り助け合っていくのは家族や地域などの身近な存在であることは変わらないはず。

 

「かーちゃん、こっちの自然は敵なんかいないから、ケージから出よう。一歩一歩。大丈夫、無課金だから。」

 

身体感覚②

世の中にはいろいろな尊敬の形、尊敬する分野、尊敬の表し方があると思う。

仕事ができる上司・先輩の姿を見て尊敬し、自分の趣味の分野で大成している人を見て尊敬し、尊敬するがゆえに真似をしたり従順になったりその人の本を買ったりする。

 

生まれてこのかた、誰をどんな順番でどんな理由で尊敬してきただろうと思い返す。

物心つかない時は、無かった。少なくとも意識的には尊敬の感覚すら存在しなかった。親兄弟が自分の生を成立させてくれているという意味では、振り返って尊敬が止まないが、当時の感覚ではない。

幼稚園、小学校低学年でも同じような理由で思い浮かばない。

中学年、高学年となってくると、現れたきたように思う。板書がことごとく上手い先生や、自分ができない教科で満点を取る同級生、また同い年にして学校以外のコミュニティで年齢の違う友達を作っている三輪くん。この頃は、「尊い」「敬いたい」といった感覚ではなかったが、とても近いニュアンスで「憧れ」であったのだと思う。

「被・尊敬」という意味ではどうか。わからない。わからないなりのぼんやりとした回想だと、定番の足の速さ・背が高いこと・犬を飼っていることなどで、「うらやましい」という言質まで確認できていた気がする。

 

中学校・高校・大学の世代では、尊敬の形も分野も表明のし方も、各個人のバラつきが出てきたように思う。

引き続き、「身体」としての顔や背や運動能力を尊敬(=憧れ)の対象とする感覚は持続していた。

 

一方で、同い年にしてすでにある特定の分野に深く没頭している人を見ることでも、尊敬を感じていた。ほぼ同じ時間生きているはずの彼・彼女は、とあるタイミングでその分野と衝撃的な出会いを果たし、エネルギーをほぼその一点に効率的に注いでいる。そんな友達の話は聞いていておもしろかったし、尊敬したし、まだ出会いが無い自分は焦りを感じていた。

 

振り返って尊敬していた人を思い出すことは、当時の嫉妬やイラ立ちの感覚を連想するのが良いのかもしれない。

テストの点数で負けるとか、バスケの試合で負けるとか、すでに彼女がいるやつを妬むとか、今思い返せばあいつの努力や才能は尊敬できた、とか思えるけど、それがまだ嫉妬やイラ立ちだった頃は、尊敬と正反対の感情であったように思う。振り返りあっぱれであった、という感じ。

 

学生時代から今に至るまで、圧倒的に尊敬する分野がある。「お笑い」ができる人。ここでは、いわゆる職業としての漫才師やコメディアンという意味ではない。クラスや部活や配属部署で、何をどう語らせてもこの人の発言にはプラスの意味の笑いが宿る人がいる。義務教育をどう振り返っても「お笑い」は必修科目にはなかったし、今もなお「センス」という言葉と繋がりが強いし、そもそも社会において「お笑い」がいかに重要かを丁寧に説明されたことがないのに、自然とできる人たちがいるのだ。

各組織に存在するこの「お笑い」の担い手は、様々なタイプがいる。力技で笑いをねじこむ力士タイプの人もいるし、場の空気の一瞬の間をつかみ的確な比喩を打ち込むスナイパータイプとかもいる。とにかくこれを身につけている人に出会うと、尊敬もするし茫然ともするし、出会えてよかったなと思うし、普通に一緒にいて笑えて楽しい。その人は本質的に成長させてくれる人なのかとか、うわべだけのコミュニケーションなんじゃないかとか、そういう見解もあるけれど、その見解はレイヤーが違う感じかな。身体感覚として笑ってしまうのは間違いなく"本当"だし、居心地がいいんだもの。

私で言うともう少し飛躍してしまい、笑いのタイプに差はあれど、笑いを提供できる人は絶対的に頭がいいと思ってしまう。つまり、本人が意識的か無意識的にか、この事象ってこういうことじゃないの?とか、ここはここの点が実はつっこみどころなんじゃないか?とか、これってもしかしてこれに似てるんじゃないか?とか、何気なく流れている会話の中から、笑いの起こり得る原石に「そもそも気づく・掘り起こす・他の石と比べる」ことができる。そして、これだけでは成立しなくて、そのポイントを的確に、選抜した相手に対し、絶妙な声量とワードで発信できるわけだ。この発信上手な人は、例えば20人くらいで行う会議で隣に座られると、きつい。披露宴の同卓でもいい。いかにジョークは禁止の空気感の会議だったとしても、私というピンポイントに狙いを定め、ささやきの一撃を放ってくるからだ。こういう人は、これは20人全員に発信しても微妙な空気になることも備わった感性で察知している。あえて一人一殺に集中できる、アサシンタイプなのだ。

この原石探しと狙撃手としての腕前が両立していることは、意図的であればあるほど「頭がいい」と思う。私はで言えば、それに対して尊敬の念を抱く。

 

社会人、仕事に従事するようになってからはどうだろう。(すみません。経験上、仕事=事務職的なことを前提とします。)ここでは、学生時代に核となっていた身体的な側面での尊敬は、相対的に押しやられてくるように思う。代わりに、いわゆる「従事しているところの仕事ができる」ことへの尊敬が割合をあげてくる。段取り力・渉外力・マネージメント力・決断力などだろうか。ここは否定できない。自分がその仕事に従事している以上、必要とされる様々な武器を身に着けている人たちであり、尊敬しないという方が難しい。

一方で、仕事面では尊敬できるけど、人間的には尊敬できないという感覚がしばしば登場する。これもあり得ると思う。仕事以外の時間で過剰なまでに尊大な態度をとる人とか、酒を飲ませるとやばいとか、家庭がぼろぼろだとか。こうなってくると、本来率直に感じるべきである尊敬という感覚が、ややこしくなってくる。それでも総合点として尊敬している場合は、無意識的に、意図的な尊敬にシフトしているのだと思う。

 

ふと思う。いつからだろう。学生時代、花形はやっぱりドがつく現場だった。現場と言うのはつまり、物理的な意味での存在そのもの・物を自在に動かすこと・物を自在に変形、発生させること、などの身体的な活動に直接的に関連する分野だ。顔立ちがいい・足が速い・力持ち・歌がうまい・絵がうまい、など。自分そのものである「身体」もしくは「身体による活動と直接的に結びつく結果」を輝かせている人は魅力があり、同じ四肢をもつ人間として圧倒的に平等なのに、差がつくから、その差分が尊敬に昇華するのだ。素直に、優劣があるのだと思う。

 

もう少し大人になってから登場する、みんなでバーベキュー。ここでも花形は、やはり野菜を刻み、火を起こし、鉄板の前から死んでも離れないタイプの人であり、ド現場こそ、みんなが目指したい尊敬のポジションにあたるのだと思う。火の粉が飛び散る中、苦し気な表情をしながらもな肉の焼き加減に集中できること。適切なタイミングで風を起こし炭に当てられること。やはり圧倒的に身体そのものと密接な活動をしており、バーベキューの日程調整・場所の予約・清算を担った「現場という意味での裏方」よりは注目される。

 

しかし、会社に入り、より上流の仕事や第三次産業的な分野に従事すると、身体での活躍はさほど必要ない。打合せにいく道中、駅の階段をたくましく一段飛ばしで駆け上がる上司は求めていないし、達筆な議事録も大事なのはそこじゃないと一蹴される価値観が多めだろう。むしろ、身体的には圧倒的に平等もしくは若さゆえに自分の方が細胞レベルで優位な状況だとしても、いかに短時間で資料を作れるかとか、発注先に冷徹な期限を設けられるとか、そういうスキルが求められており、細胞レベルはあまり関係ない。

 

良いことなのだと思う。結局、身体感覚に共鳴するか否かで尊敬の有無を決めるということは、言ってみればホモサピエンス時代の発想なのかもしれない。高度な文明へと発展を遂げた今は、かつては埋没していた能力が必要とされ表明できるようになったという意味で、尊敬の対象としての多様性も広がり、人類全体として進化を遂げているのだと思う。

 

ただ、スポーツ選手やものづくりの職人や、歌手や、「身体のみで優位を表明できること」に対する尊敬は、今後も消えないことだけは間違いないと思う。消えないし、私個人で言えば、その優位性に対する尊敬は、四肢を使う人間である以上、常に最上位かな。

そして、「お笑い」ができる人も。物理的な行動という表現とは違和感があるが、基本的にやはり生まれついた身体のみからの発信を行っているという点で、"同じ四肢をもつ人間として圧倒的に平等なのに、差がつくから、その差分が尊敬に昇華するのだ。"なのかな。

 

 

 

 

 

身体感覚①

炎天下の建設現場。蝉の声すら認知できないほど朦朧とする意識の中で、サイズの合わないヘルメットの内部は極限の湿度まで高まっている。単身世帯用アパートメントの3Fまで、背丈の1.5倍は長い木材を抱えながら、狭すぎる通路を往復する。次の一歩を踏み出す左脚の感覚が鈍り、資材を抱える両二の腕がバイブレーションを起こす。頭上には同時現場となった壁紙職人が敷設した古びた裸電球がゆらゆらとぶらさがっている。3Fまで運び終えると、さながら競泳選手が壁をタッチしたのち一瞬たりとも止まらず折り返すように、俺も階下へと駆け降りる。

 

俺が見えている世界。

眼下に続く下り階段。体を折り曲げなければ接触する裸電球。滴り落ちる汗。いつまでも舞い上がっている謎の粉塵。とにかく次の資材にたどり着くこと、その一点のぶれない意識。

今はどんな文化的な記憶も理想も選択肢もない。身体がそれらを雑念と位置づけ、その雑念を拒否している。はやく、次の資材を運ぶのだ・・!

 

というような仕事は世の中にはある。

その仕事に携わった期間の長短により慣れと技術に差はあれど、物理的にモノを運び・壊し・打ち付ける等を担う職は21世紀でも健在だ。健在どころか残り続けるのは得てしてこういう仕事なのかもしれない。

極端に表現すれば、彼は死ねる。文字通り、死ぬことが可能。なお正確に表現すれば、死ぬことがたやすい状況にある。230cmほどの資材を背中にかかえ上下階を往復していれば、その一歩を間違えば資材の重みの下敷きになり、致命的な一撃を受けかねない。彼はこの仕事に携わりまだ一週間。恐らくビギナーが一番死にやすい。

 

彼はやり終えた。自らの”まだ死にたくない”という根源的欲求というか動物的本能というか、無意識な魂がむき出しになり、次の一歩を正解し続けた。

彼は現場の最寄り駅まで歩く。喉がからからに乾いている。コンビニに入り店員といちラリーでもコミュニケーションを図る気力も体力も尽きている。自販機を探す。しなびた自販機を発見する。爽健美茶午後の紅茶・オレンジ風味のいろはす。これらには目もくれずポカリスウェット一択。

極限まで追い込まれた人間は、カフェインがどうとか軟水を使用してますとか、どうでもいい。義務教育開始と同時期に染み付いた、肉体的に乾きを覚えた際はポカリスウェットという条件反射に従うことしかできない。一本目をほぼ一気飲みし、二本目をすぐさま買う。小銭がなかなか掴めないほどに、指先の筋肉が震えていた。

 

~1時間後~

 

意外とすぐ回復した。ふ~。

そのまま家に帰るのもどうかと思い、得意のルノアールでアイスコーヒー水だしをちょびちょび飲みながら思いにふける。

あの時俺は、常軌を逸していたと思う。実際に常軌を逸するか否かの選択に迫られなかっただけで、俺が死なないか死ぬかの選択に関わるノイズがあれば、そのノイズをいかなる理由であれ発した奴を突き落としていたと思う。突き落としていたし、あのタイミングで昨日のドラマの感想など聞かれた日には発狂していたかもしれない。あらゆる文化的な思想など俺の身体から消え去っていた。

所詮、文化的な、現世に言う人間的な、そして豊かな、なるものはその次の一歩を踏み外したら死ぬ人間の前では無力だ。そんなものはこの世には無いのではなく、そういう人間からしたら、存在するか否かの問いすら無いのだ。

この道数十年とおぼしき職人は、流行りの電子タバコの銘柄を同僚と論議しながら資材を運んでいた。そう、俺が言いたいのはこういう仕事はうんぬんではない。個人の技量がどうこうでもない。俺個人という身体がそう捉えていたというただその事実だ。

 

日大アメフト部問題。あえての。

至極自明なことだと思う。至極人間的な危機回避なのだと思う。何も文化的な判断ができる次元であったわけではない。彼は人間としてもっと自律すべきだった等の批判は、彼が直面していた問題とレベル感が異なる。

自身にとり完走できるか否かぎりぎりの距離をマラソンしているとする。あと200メートルが死ぬほど遠いと感じるあの感覚。肺が悲鳴をあげており手足がマネキンのように感じるあの感覚。これまで学んだ全教科・家族を含むすべての人間関係が意識から飛ぶあの感覚。精神的な面で言えば、何を言っても相手から「否」で返されるとき、選択肢を事実上ひとつにしぼりこむ条件提示を執拗にしてくる上司・恋人に対面したとき。精神は肺と同様悲鳴を上げる。

そんな感覚の折、相手選手の行く末・母校のチーム存続の今後・世論の受け止め方なんて考えられるわけがない。ただ目の前の、死なないために次の一歩をいかに踏み外さないか、それしか見えない時があり得るのだ。

この感覚から帰結する結果についてのいかなる批評は、意味をなさない。世間的には意味ある見解でワイドショーが終わったとしても、次に追い込まれる人間がでてきた際に、何の予防策も提示しない。

 

だから、彼があの事件発覚後、何週間後に謝罪をしたってしょうがない。しょうがないというか、本質を突き得ない。

松本人志が言っていたように、酔っ払って事件をおこした人が何日か後しらふの状態でもう二度とやりませんって言ってもしょうがないというのは真理だと思う。酔った状態でなお、今後はやりませんって言わないと意味がない。だって、置かれている身体的危機感がその時と後日とでは違いすぎるから。追い込まれた人間は、あらゆる文化的見解なんて選択肢として上がらない。

 

つまり、文化的な判断ができなくなる前に休憩をとる制度を採用したほうがいいとか、精神的に弱い立場の人間を追い込まないほうがいいとか、そういう安易な対策は本質を射た議論ではないということだ。

リスクというか、本来一番腹落ちしなければいけない、人間としての性質を再想起することが現代においては重要だということだ。

人間は動物だから、”やばい死んじゃう”とか、”いったん止まりたい”とか、”3秒後生きてたい”とか、そういうレベル感が最終的にある。そのレベル感に達した人間はもう止められない。

文化的な理論とか制度とか救済策とか、人類は進化しているから認める方向でいきたいけど、そうやって自尊心を高めていきたいけど、それは身体的な感覚を無視していい免罪符にはなり得ない。

泥臭い、過呼吸気味の、ポカリにただすがりつくことしかできない人間がふと目の前の建設現場にいることを想像できないと、脳みそだけでかくなった顎が逆三角形の宇宙人になってしまう。

 

フルーツの王様

中野駅の男子トイレ、手洗い場の鏡の前に、丸かじりされ芯だけになったリンゴが落ちていた。

死後の腐敗はまだ始まっていないと見てとれたため、恐らく食後3時間以内と思われる。

 

中野にターザンみたいなやつが少なくとも一人以上いることがわかった。

この加工食品あふれる現代で生のリンゴを食すことを決定したターザン。

買ったのか、拾ったのか、むしりとったのか。リンゴ畑は恐らく近くにないはずなので、つまり拾った選択肢も限りなく0として、買ったのだろう。

 

ディズニー映画みたいに芯だけのリンゴだった。

あそこまで芯を露わにしたということは、かけた時間はそれなりだったのではないか。

トイレで長時間、日中帯にリンゴにむしゃぶりついてても通報される気がするので(何の罪にあたるかのか)、たぶん改札に入る前から食べ始めている。

 

かじりついたリンゴを左手に、スイカを右手に、入場したと思われる。

フルーツ大好きだな!

 

 

いや、リンゴかじるくらいの人だから切符か。

 

徒然(2)

■見ちゃうポイント

人それぞれ、人のここすごい注目して見ちゃうポイントってあると思う。

私は、生放送の番組で「続いてはこちらのVTRです、どうぞ!」と言った後なかなかVTR開始とならない間の2~3秒にみせる女子アナの表情。

何かを我慢する表情に似ている気がする。

 

BOSEのスピーカー

買った。型落ちモデルだけどいい。何がいいって低音が強くていい。

低音は何かいい。たぶん、恐ろしく球威のある直球を投げ込まれてキャッチャーミットの真芯で捕球した際の振動と心地よさが似ている気がする。(経験無し)

 

■花火大会ダイジェスト

ローカルテレビで全国各地の花火大会の録画放送を観た。

あたりまえだけど申し分のない地点・角度からの花火鑑賞。

花火を文字通り堪能するなら文句なし。

だからこそ判った。花火を現地に観にいきたい衝動は、花火を観たいわけではない。

 

■多分

短編の推理小説が一番恐ろしい。犯罪は短編内で解決されても、そこに登場した不気味なキャラクターの全貌が明らかにならないまま終わる感じがするからだ。

そのキャラクターの生涯や描かれていない猟奇的な性格など、もしかして在ったんじゃないかと恐怖の妄想が広がり話が終わる。

 

■多分②

これ一生好き。

雑種は我が家だけのオリジナルだから可愛いよ。

youtu.be

 

ひとりの時間の過ごし方

お題「ひとりの時間の過ごし方」

 

今日のお題は「ひとりの時間の過ごし方」。

 

休みの日は何をしていますか?は、初期コミュニケーションで頻出の問いと思われる。

これに対する答えっていわゆる本音と建て前の世界だと思う。

 

本音の部分をいうと、恥ずかしながら私は恐ろしいほどにドキュメンタルのツボに入ったシーンを繰り返し見続けているし、一度気になったスーツにつく白い埃をガムテープで永遠に取り続けていたりする。疲れがたまった日はYouTubeで好きな思想家のチャンネルを3/4以上眠りながら流し続けている。

 

というような回答は初期コミュニケーションでぎりぎりまでひかれるもしくは次の会話への発展性に乏しいので、建て前用の回答も準備している。

「読書・映画鑑賞・ランニング・バスケなどですね。友人と飲みに行くことも多いです。」

「二日休みがあれば一日はアクティブに、一日は家にこもって好きなコンテンツをじっくりと堪能しています。」

あたりが収まりのいい回答に思える。

 

趣味とは?に対しては、「時間を、我を忘れて没頭し気づいたら夕方」になり得る領域だと聞いたことがある。

そんなことって結構難しいと思う。移動時間、現地での活動も含めてハイキングなんかに出かければ気づいたら夕方にはなるのだろうけど、例えばジグソーパズルを始めてやっと少しばかり形が見えてきて気づいたら夕方5時のチャイムが外から聞こえてきましたなんて、ほんとに好きなんですね、を超えてなかなかすごい集中力ですね、という方に感心してしまう。

 

そう、没頭するってことは、ほんとにその物事が好きだということに加えて、絶対的に集中力が必要となる。家の中、クーラーの効いた快適な部屋でパズルに取り組んでいれば、テレビもあるしトイレもすぐいけるし突然の来訪者があるかもしれない。そんな中断がありながらもなお没頭し続けるってのは、好みという「天性」と集中という「努力」が合致している気がする。

 

私で言えば読書。あるあるとも思うが、家の快適なソファーでさぁ読むぞというスタンスは苦手である。どうしても文字がすんなり頭に入ってこない瞬間や読めない漢字が現れることはままある。そうなった時、家だとすぐ別の本を開いてみたり無駄に氷を作り始めたりしてしまう。

やはり公共機関や病院の待合室なんかが読書にはベスト。限られた時間で他に注意を向けるものもほとんどなく、ほどよい雑踏でもある。外にいるからこそ、本と私は唯一の肉親同志のような親密な関係になって、本とひそひそ対話できる。

 

憧れる「ひとりの時間の過ごし方」像。(嘘)

・オンラインショップで気になる木刀の底値を探している。

・家にろくな調理器具もないのに豚骨スープを作り始める。

・スタバで競馬。

・上野公園でハトに餌をやる人を本気で注意する私的警察業務。

・丸の内界隈を柴犬5匹くらい連れて散歩。下駄で。

 

一人の時間は、リラックスモードと自己研鑽モードを選択できるけど、今日はどうしますか?

 

…リラックスで。。

 

になりがち!

好きなビール

お題「好きなビール」

 

はてなブログにお題スロットなる機能があるので使ってみます。

 

好きなビール。ビールは基本的に好きだけどどの種類が?とかどんな所や誰と飲むビールが?という設問なため、ビールが好きでない人には問いから成立しないと思われる。

 

たかし:好きなビールはありますか?①

よしお:いえ、ビールは炭酸がきついし苦いのでそもそも苦手です。②

たかし:そうなんですね。とはいえ、普通と辛口だったらどちかが好みですか?③

よしお:いえビールは飲まないんですけど…どちらかというと普通の方ですね。カレーでもなんでもあまり辛口を好む傾向にはありません。④

たかし:ありがとうございました。⑤

結論:よしおは辛口ビールが好き。

 

みたいなことって結構あると思う。

会社で目標決める時とか、旅行のプランを決める時とか、沖縄基地問題を話し合うとか。

話の流れ上、やみくもにNoを主張していると場の空気がおかしくなるので、よしおは一旦質問③に対し④というAを返す。"カレーであれば"など、Aに対する補足も述べているのだが、たかしは④というAが"あった"のを良いことに、①②のQAを無視あるいは逆の前提で話を進めている。

統計情報として、やっぱりよしおは辛口ビール派に分類されるだろう。本当はそもそもビール飲まないのに。

 

WEB上のアンケート等であれば、ある程度正確に自らのAを分岐させるタイミングあるので、このずれは起こりづらいのかもしれない。

しかし、人と人が相対する会議の場では、このねじれは結構発生すると思う。

会議や話し合いの時間は限られているし、出席者は立場や年齢や性別が色々違うし、その会議はかれこれ3回実施しているが結論が出なかった会議の延長戦なのかもしれないし、人は人の意見を結構すぐ忘れる。

世にいうファシリティーターなんかは、いかに皆の意見を余さず反映させた上で効率的に会議の結論を見出すかという能力に長けているのだろう。しかし、得てして意見の収集方法は上記のビール問題みたいだったりするし、そこから出された結論は、一種"結論を出すことがクリア条件のゲーム"でのゴールのように思える。

 

かと言って、「いやいや会議開始10分くらいで置いた仮説が実は納得いってなかったのでこの結論には賛同しかねます。」みたいな態度を続けてても次のアクションに繋がる合意形成は永遠にできないわけで、後出しは埒が明かないので禁止としたほうがいい。後出しは禁止だけど、この会議及び会議から導き出される結論は、開始10分で置いた仮設を前提としていますという文言を皆が見える形でホワイトボードにでかでかと書いたまま会議を続け、会議終了後にみんなで音読するくらいが正直な会議なのではないかな。

 

話が専門的で仔細な領域に入ってきてこそ、後出しちゃぶ台返しは禁止しつつ前提をチラ見しながら進めていくのがいいのではないだろうか。

 

といように私も上から下に水が流れるがごとく書いている時点で、上流の方にちりばめられた仮定が存分にあるので怪しげな文章である。

論文なんかは極力この怪しさを排除するために予見できる反論に対する反論を随時挿入しているだろうし、この部分は立証されていますというのを他の論文の引用に一任したりしていくから、長文にならざるを得ないんだろうな。

 

死刑制度の是非を問う討論番組で、番組終了5分前に、「そもそも死後の世界は現世より幸福に包まれているので死ぬことを絶対悪だと捉えている時点で以降のいかなる議論にも私は参加すらしておりません。」とかはキツイなぁ。

意見自体はOKと思うけど、「先に言ってよぉ~(泣)/sansan風に」だろう。

 

平成①

(生まれはぎりぎり昭和であるものの、)実質平成を生きた世代として、平成をしっかりと認識し、語れる、いち市井でありたい。

文學界の、「平成くん、さようなら by 古市憲寿」を読み、改めて書く。決意と備忘。

www.bunshun.co.jp

 

平成と同年数の齢である自分として。

江戸時代の人は、大正時代の人は、昭和世代の人は、と元号区分で少なからず語る機会があるものとして、平成とは。を自分なりの体験を通じて後世に語れる準備を進めたい。

結構重くなる予感。人生で一番濃い期間であることは自明だから。

主に「繋がり」「諦観」をテーマとして、かな。