名前

名は体を表す。名前負け。名に恥じぬよう~などなど、名前にまつわる慣用句は色々ある。

今日は名前について考えてみたい。

 

役所や病院で他人の名前を耳にすることがままある。この前は某旅行代理店であったが、隣の席で手続き中の男性は、漢字は不明だが、「アベ シンノスケ」と名乗っていた。隣で聞こえてしまった私は思わず横に巨人の四番が座っていないか確認を取ってしまった。

苗字のみならまだしも、フルネームすべて著名人と同一だと、名前から発せられるイメージに、自らが飲み込まれてしまわないか不安になる。巨人の四番なら、そのイメージが「責任感」や「決定力」や「強肩」など、プラスに働く要素が多いかもしれないが、以前同じ職場にいた先輩は、とある猟奇殺人犯と同姓同名であった。これは辛い思いをすることも多々あったであろうと同情する。

私なんかは、シュウヘイという名前をテレビで聞いたり本で出くわしたりすると、むずがゆい気持ちになる。最近だと野村周平という俳優がいるが、イケメン俳優であり「そうそう周平って名前はそうなんだよね~」となる。あまり周平にも中澤にもネガティブなイメージをもつ著名人は幸いいない。

自分が何かしらで将来有名になる際、すでに自分の名前と同じ人でめちゃくちゃ有名な人がいるか否かは結構大事だと思う。若手お笑い芸人で松本という名前の人がいたら、お笑い界での松本枠は完全に成約済なわけで、結構辛いと想像する。幸い中澤もシュウヘイも決定的な人材確定は成されていないように思われる。(リーチのかかっているレベルで、中澤はボンバーヘッドモー娘。元リーダーの強敵はいるが・・)

 

私だけでないと思うが、基本的に人は自分の名前は好きだと思う。慣れ親しみすぎて究極の愛着が湧いてしまうという感じか。私でいうと、「周平」はかなり好きだ。いそうで少ないし、「しゅーへー」の呼びやすさがあるし、「しゅうちゃん」「しゅうくん」等の派生もしやすい。「平」のもつ古風な感じと「周」というまろやかな響きが良い作用をもたらしている。(と勝手に思っている。)

 

できれば将来の自分の子供は、友人から「名前」で呼ばれる子になってほしい。小学生くらいは、みな共通して苗字で呼び合っていたが、中学・高校くらいになると名前の方が呼びやすい友人については、名前で呼び合う習慣へ変わっていく。

その際に、引き続き苗字で呼ばれる子の場合、得てして名前が呼びづらいか、苗字の方がキャッチーかのケースかだと思う。

なお、女の子同士なんかは親しくなりすぎて、一回苗字呼ばわりに戻るタイミングがある気がする。

 

〇〇顔なるイメージがある。例えば、ゆうすけ。ゆうすけは、各種漫画や有名人のイメージが先行して、やっぱりヒーロー感というか爽やか感というか主役感がある。そのイメージにドはまりしているゆうすけを見ると、「お前はゆうすけだな」と改めてかみしめる。

また、これは個人的な出会いが影響しているが、「あや」「あやね」「あやな」などは基本的に美人のイメージがつきまとう。「〇〇子」と最近では希少性のでてきた名前についても、その希少性ゆえに何か気に留めたくなる存在になる。

 

そう、これらの名前に対する個人的イメージは、保育園や幼稚園など社会との接点を持ち始めてからのち、さまざまな名前の人と出会い、各個人の「これまで会ったことある名前図鑑」が一枠ずつ追記されていくこととなる。

私で言うと30歳間近のタイミングで初めて橋本という友達ができたり、逆にナカジマという名前は各学校生活で必ず一人以上いたりして図鑑としては重複カードとなっている。将来各世代で出会ったナカジマ達を集めてナカジマの集いを開催したい。

また、あなたにとって「ナベちゃんとは?」と聞いたら、恐らくほぼ全員、自分のイメージする「ナベちゃん=ワタナベ」がいることだろう。

 

名前が無いとどうなるのだろう。

人物ではないが、聞いたことがある話で、「肩こり」がある。

日本では悩まされる人が多いこの生活習慣病も、フランスではそもそも存在しないという。

その理由は、「肩こり」という言葉が存在しないからだという。言葉が存在しない事象は、本当に存在しないことになるのだ。(フランス人は、それでもやはり肩に鈍痛がある場合は、なんと表現するのだろう・・)

「我思う故に我あり」みたいなことは難しくて考察ができないが、単純に人についても名前不在の状況があり得たらどうなるのだろう。

お互いを呼びづらいなど、実務的な弊害はいったん置いておいたとして、やはり自分が自分であるゆえんの「個別独特性」みたいなものは持ちづらい気がする。

犯罪者は監獄で数字やアルファベットで呼ばれるようだが、ものすごく自分の存在意義を薄められるだろう。

名前というキャンパスがあり、そのキャンパス上にみなそれぞれの色や絵を配置してきた人生なのに、キャンパス自体が消滅する感覚がある。

 

動物はどうだろう。

過去私は家族として2匹の犬がいた。(1匹はまだいる。)

よく散歩中に呼びかけてみる。「ラム」という名前なのだが、「ラム」と呼んでも振り向くが、「ハム」と言っても「たろう」と呼んでも振り返った実績がある。

動物に関しては、自分に対して発せられた音声に反応する、という感じなのだろうか。

少し寂しいが。

幼稚園から飼っていた犬は、そういえば一度改名させられている。ブリや落語家のごとく、

元々は「カール」だったのだが、我が家で引き取ったタイミングで、それこそ新たなキャンパス化を図るべく「パル」に改名。たまたま響きは近しかったが、ある日を境に名前の変更がされた愛犬はどんな心持ちであったのだろう。

 

キラキラネーム。

「キラキラネームはどうなんだ?」と世に疑問を投げかける人は、得てしてその名前をもつ本人とは直接関係性がない場合だと思う。第三者からみるから、キラキラ=けしからんと思ってしまう。

直接の友達や知人であったなら、初見こそ違和感があるかもしれないが、日数が経てば「たかし」や「さとみ」などと同様、その人を表すただの名前に過ぎなくなるだろう。

ただ、半濁音は入れないほうが良い気がする。苗字は基本的に変えられなく、日本人の苗字と半濁音は、牛乳と蕎麦感がある。

甲子園

お盆時期、久方ぶりに開催される家族親戚の集い。狭い居間で肩を寄せ合いながら団らんとなる。産まれたての赤子もいるし、各自の近況伺いなどで話題に事欠くことはない。されど、場の雰囲気へのプラスアルファとしてテレビをつけることとなる。

 

この状況でベストなのが、甲子園だ。

夏の風物詩であり、テレビ越しに甲子園のグラウンドからでる熱気と、球児の流す青春の汗が一瞬で伝播してくる。

 

時代は移ろえど、必ずこの時期には、純朴に頂点を目指し白球を追いかけるほぼ坊主頭の若者たちが全国各地に存在している。そして、その姿をNHKが中継している。その安心感と躍動感は、年に一度集まる家族の絆を、より一層強固なものに昇華させる雰囲気を持ち合わせている。

 

観るともなしに、テレビからアルプス席の歓声が小さなボリュームで聞こえる程度でも良い。高校野球マニアのおじさんでない限りは、中継される一球一球を目で追う必要はない。

 

そこに、高校球児が炎天下の中、青春を謳歌してさえすれば良いのだ。お盆を、いつものお盆にしてくれるだけで良いのだ。

 

もし自分がバッターボックスに入ったら、自分のために編曲された応援歌をなるべく聞きたいので、3球目までは見逃すと思われる。最悪三振してまうが。

 

グラフィック技術があったら

東京都心で日中、どれだけ人が存在しているか建物など障壁物を全て消し去った状態の3Ⅾグラフィックを見てみたい。

高層ビルなんか空に向かってどんどんどんどん人がうじゃうじゃ積み重なってる感じなんだろうな。

そして東京のアップが終わった後、引きで関東、日本と同じように表現して欲しい。

いかに東京都心に人がギュッてなってるか恐ろしい絵ができそう。

大仏

とある環境の変化が重なった際、思い立って鎌倉の大仏を観にいこうと決心した。

幸い鎌倉駅までは電車で15分程度の住まいであったため、最初は近いし行ってみるか程度の心持ちだった。

電車で本を読みながら半分寝そうになりながら鎌倉駅に到着すると、「高徳院こちらへ」の看板が掲げられている。鎌倉にはその他大勢の寺社があるので、特別大仏がフィーチャーされている感じではない。前に行ったのは確か5~6年前であったから、徒歩で行ける距離なのかバスに乗るべきなのか判然としなかったが、時間も持て余している身であったため歩くことを決意。

 

その日は7月初旬、気温は30度超えの快晴。猛暑なのか普通の夏日なのか、どの言葉が当てはまるのか不明であったが、Tシャツ短パンリュックサック姿で大仏に歩を進めるのも勝手に趣を感じたところであるので爽やかな心持ちであった。

 

さて、その日は平日であったので高徳院こちらへの看板に従って歩みを進める同志はほとんど見当たらない。炎天下の中、脇を車が通り過ぎる以外は静寂と言っていい状況でひたすらやや上り坂を進む。途中2回ほどトンネルを潜り抜ける。その切り立った山の底を歩く若干の恐怖と、トンネル内特有のひんやりとした肌感を感じながらもくもくと進んだ。

 

なかなか高徳院っぽさや大仏っぽさが現れない。平日だからかもしれないが、わいわいと観光地じみた喧噪も現れず、じっと炎天下を耐え忍ぶ家々が林立する住宅街に突入していくのみ。看板の指示に従っているため、方向が誤っている可能性はほぼ無いのだが。

 

私はスマホで地図を確認し、自分がどの位置にいるのか、あと何分くらいで到着するのか確認する手段を持っていた。しかし、ここでスマホには頼らないと決めていた。その理由がなんであったか。漠然とであるが、大仏に辿り着く過程を文明の利器に頼ってはいけない。自らの判断・脚力でのみ到達すべき。という謎の信仰をもってしまっていたのだ。

 

かなり不安になる。昔の人、特に思い浮かべだのは大河ドラマで取り上げられがちな江戸時代の人だが、目的のお屋敷や寺院へ向かう際、初めての道中であったならさぞ不安になるだろうなどと考えていた。私はいざとなればスマホに頼ることができるが、当時の人は地図らしきものは持っているだろうが、一度迷い込んだ自分の位置を衛星から確認させることなどできない。

 

自分を江戸時代へセルフタイムスリップさせ不安を抱えながらひたすら大仏を目指した。

 

心境の変化がある。すごく、大仏に会いたい。大仏様にお目にかかりたい。もはやお救いください。あぁ、大仏様。ここまでいった。先人たちが仏教や自分の信仰する宗教の偶像たる銅像や石造に参る際、このような心境になったのだと想像した。そこにあるのはいわゆる物理的な建立物であり観光客にとっては名物スポットなだけで、さして重要な意味づけはないのかもしれない。だが、私の中では「鎌倉の大仏」を超え、「精神の支え」にまで昇華していた。

 

ここを右!の最後の看板を右折すると、ようやくそこに人込みが現れた。どうやら鎌倉駅からの裏道を通ってきたイメージのようで、なかなか観光客に出くわさなかったわけだ。

 

拝観料を払い門をくぐり抜けると、紺碧の空を背景とし、徐々に大仏様のお姿が現れる。ようやくお会いすることができた。めちゃくちゃ不安だった私の心は、大仏様のご尊顔を観るといっきに癒され、大仏様は「待っておったぞ」とお声をかけてくださっている感覚があった。

 

但し、いったん道中で尿意を催しておりトイレに行かせていただいた。頭出しご挨拶をし、トイレに行き、整ったタイミングで再度正式にご挨拶。

 

青空澄み渡る天候のもとで大仏は微笑んでいるように見えた。雨の日も風の日もこんな炎天下の日も、大仏は動くことはできない。大仏を囲う防御壁もなく、ただそこに居続ける大仏。

本来、宗教的意味も様々あるのだろう。決して私はそれらを理解していない。ただ、一介の市井たる私にとっても、大仏が鎌倉に腰を据え、軸で居続けていることが、何か精神的な安定をもたらしてくれていると感じるのであった。

 

また、周囲は外国人観光客が写真ラッシュをかけていた。全員遠近法を利用した手のひらに乗せてみるアングルで撮影を試みていた。鎮座していらっしゃるところに重みがあると感じていた私は、手のひらサイズにしたら良さ消えてまう!と忠告したかったがしなかった。

 

宇宙

生きる上で考えなければならないことは山ほどある。

例えば、仕事のこと・家族のこと・老後のこと・平和のこと・来週の飲み会のこと・死後の世界のこと・ジャイアンツが調子悪いこと・O脚のこと・・。

身近なことほど考える回数は多い。個人的にはO脚のことは頻繁に考えている。

 

一方で、連日報道されていたことから北朝鮮問題なども考える順番は割と手前。自分なんかが考えを及ばせたところで砂ぼこりひとつこの問題に影響を与えることはできないけれど、何か飛んでくる可能性があると言われると急に当事者感も出てくる。

 

かと思えば、その日は彼女とデートがあるため、当たり前のようにピントを手前にぐーっと合わせ、レストランを検討しなければならない。

 

ところが仕事がひと段落したタイミングで、宇宙のことも考えてあげなければならない。これは順番は相当後ろ。後ろだけど、たまに物事を最初から順番にやりすぎて、疲れて、気分展開に後ろから手を付けてみたい衝動がある。夏休みの漢字ドリルがそうだった。後ろからも手を付けてみて、前からもある程度やっているから、いつしか気づいたら真ん中で落ち合って、完了していた時は嬉しかった。この理論で宇宙に手を付けるわけだ。

宇宙を考える時、わりとまずは北朝鮮問題に似ていて、宇宙が突如かたちを変えて、膨張だか縮小だかなんだかで地球の位置がずれてしまう。巨大惑星が地球の横を猛烈なスピードで通り過ぎる、とかでもいい。すると地球が木っ端微塵になるなら考える暇もなく死ぬからまだ良いとして、地軸が極端に傾いて異常気象連発で食料が採れなくなり血も涙もないドロドロの人類生き残り競争とかになったほうが手に負えない。重力なんかも変わっちゃって成立していたすべてのエネルギー施設とか交通機関が破綻して、やっぱり悲劇が待ち受ける。スポーツもルールや記録が成立しなくなる。

ロマンはあるけど、あくまでロマンの立ち位置でい続けてほしいのが宇宙。観測して何億光年前の光をいま観ているとか、夏と冬の星座の話とか、ビッグバンの話とか、XX理論とか、壮大なロマンの世界であってほしい。あまり近い距離まで近づいてこないでほしい。

 

O脚の話から宇宙の話まで、人間は考えるテーマが多すぎる。

どちらのテーマに寄り過ぎてもいけないことはわかる。本当は適度にテーマを使い分けたほうがいい。自動車のシフトチェンジレバーを変えるように。

たまに仕事で疲れ果てた人が自分の悩みのちっぽけさを知るために大自然を観に旅に出ている。発展途上国へ行き、貧しいけど幸せな人たちに会いに行くとか。あまりに資本主義社会の一企業のXX職の切り口で生活し続けたから、何千万年も続いてきた人類の末裔である切り口を思い出したいとか、生きているだけで本来幸せなことを思い出したいとか、そういう理由で。

 

難しいのは、テーマや切り口を変えることは言い訳にも使えちゃうことだ。その切り口で頑張り続けられないから他の切り口に助けを請う。そんなこと考えても無駄だよ人はいつか死ぬんだから、の究極の発想に近い。

だから、一番直接的に自分に影響のある、物理的に距離の近いところのテーマから向き合っていって、疲れてきたら自分の中で土日は違うテーマを中心に考えることにして、違う切り口での学びや一種あきらめを自分の懐の深さにして、また近い距離の世界に活かしていくしかない。

シフトチェンジレバーが巧みに使える運転技術を持っていたほうがいい。

 

師であるとは。

自宅から約15分自転車で行った所に一つのバスケットゴールがある。

だだっ広い公園の一画に当たるわけだが、日本では貴重な野外バスケットコートであるため、割と足繁く通っている。

だいたいそこにはいつも3~4人の少年・少女達が自主練習をしている。

多いのは中学生であるが、中には小学生もいて、日によっては小学校1、2年生とおぼしき小さなバスケットボールプレーヤーが集っている。

 

7月初旬のよく晴れた日。

私がコートに到着すると、日曜だからか8人くらいの少年・少女達がバスケットを楽しんでいた。

少々ごみごみしていたが、私も邪魔な大人とならないよう控え目にシュート練習を開始した。

少年たちがボールを取ってくれたらなるべく明るく大きな声で「ありがとう」。

私がボールを取ってあげたらなるべく優しい軌道で「ほいっ!」と言いながらパスをする。

 

こんなバスケットシュート練習コミュニケーションを少年・少女たちと交わしながら小一時間が経過したころ、唯一いた40台の子供好きそうな男性プレーヤーが私に声をかけてくる。

 

「1 on 1 しませんか?」

後で話してみると某財閥系企業のエンジニアリング会社の技師であるこの方は、どうもこの公園の隣に家があるらしい。

よく家の窓から1 on 1ができそうな青年・大人がくると駆けつけて勝負をしているそう。

俺のテリトリーに侵入する奴は何人たりとも倒してやるという気概とは全く正反対な見た目の人のいいおじさんは、時には少年・少女たちにバスケを教えてあげたりしながら土日を過ごしているらしい。

そういえばシュート練習する姿、技師だけあってなかなか手際がよくシュート成功率も高かったように思う。

 

いきなりの1 on 1、私としては久しぶりの(シュート練習以外の)バスケであり、勝ち負けうんぬんよりも足を怪我しないか、少年たちにぶつかってケガをさせないかが心配でほんの瞬間躊躇したが、ここでお断りした際ののちのコートでの居づらさと天秤にかけ温和に決戦を受諾した。

 

一言目、「大学生ですか?」と聞かれた際は、少し嬉しかった。

こんな「おじさん to 30男の会話」でも年齢は下回って推測してくれると嬉しいものなのだから、やはり女性との年齢QAはとことん下狙いを徹底した方が良い。

 

主旨ではないのでさらりとなるが、1 on 1 対決はおじさんの勝ち。次に行ったスリーポイント対決は私の勝ち。フリースロー対決はおじさんの勝ち。最後に「すごろくシュート対決」を行った。

 

すごろくのように、ゴールを支点としてぐるっと一周、おおよそフリースローの距離から9本ゴールを決め、最後にスリーポイントを沈めると終了。1本決めたら隣のマスからシュートを打ち、連続9本入ればそれで終わるが、1本でも外すと外したマスにステイ。打ち手の交代となる。誰が一番早く上がれるかというすごろく+バスケのゲームだ。

 

おじさんと二人でやった際は、かなり最後はぐだぐだになりながらも私の勝利。

まずは練習で一戦やりましょうという話だったからか、おじさんは私が連続で沈めていくたび「練習だからね」を連呼しており、わかっているよと思っていた。

楽しかったのだが私が勝ちを収めたのちもう一回二人きりで対決するのは大人のたわむれが過ぎると思ったので、二回戦は周りの少年たちを巻き込むことを提案。

声をかけるとその場にいた中学生二人、小学生三人が本当にしぶしぶの表情で参加を決めてくれた。

 

小学生は高学年一人、低学年二人といった感じだった。

低学年の子のうち一人はおそらく日本人とアフリカ系のハーフだった。(終わって軽く挨拶をした際お母さんがいて日本人だったのでお父さんがアフリカ系の方なのだろう。)

 

申し訳ないがその二回戦はおじさんと私の二人勝ち、少年たちはなかなか入らず楽しめているのか不安であった。

とはいえ私がダントツで勝ちを収めた際、ズバズバと連続で入るシュートに対し、「すげぇプロみたい」との感想が漏れ聞こえており、嬉しかった。

 

結局このゲームを二回行い、私は引き上げることにした。

おじさんとはまたここで会いましょうと約束し、去る際に少年たちと目があったら手を振ろうと思っていたが誰も私のことは見ようともしていなかった。

プロ的な人が帰るのに~。

 

公園の水道水でひとしきり顔と手を洗いリフレッシュ。一服したのち自転車で公園出口に向かっていると前述した通りハーフ少年とそのお母さんと出くわすことに。

私はすれ違いぎわ、少年に目を合わせて会釈をすると少年も軽く返してくれた。

そして、お母さんが「ありがとうございました!」と声をかけてくれた。

 

とっさに感謝の意を伝えられ、びくついてしっかりと返しの言葉が発せなかったのだが、くすぐったさと嬉しさでとても温かな気持ちになった。

ありがとうございましたということは、お母さん目線からすると、子どものバスケ練習に積極的に関わってくれ、シュートのアドバイスなどもしてくれありがとうということだったのだろう。

いえいえ、彼の自由にシュート練習する機会を奪ってしまったのであったなら、むしろごめんなさい。アドバイスといってもスラダン受け売りの「ひざが大事だから」の一言くらいであったし全然何もしていない。

だが、あのすごろくゲームの瞬間、確かに連続でシュートを決める私は彼にとって「すごい人」に見えていたはずであり、たった一言のアドバイスでも嬉しく感じてくれたのだろう。

幸い私は180センチ近くは背があるので、子供からすれば正体不明のややプロ的な人に思えるのは想像できる。私も子供のころ逆の立場で同じような人が現れたらそう思うと思う。

 

だがしかし、少年よ。一般的にアフリカ系の血はなかなか優れた運動能力を持っているよ。ことバスケに絞って考えてもNBAや今ではbリーグだって大活躍しているのはやっぱりアフリカ系の血が入っている人達だよね。

とするとだよ、これまた一般的に考えて、純アジア人である私なんて君が本気でバスケをあと7年くらい続ければあっという間に抜き去っていくわけだ。

私は高校時代、強豪私立高校と対戦した際セネガルからの200センチ越えの留学生と対戦し勝ち負けうんぬんの土台に乗れなかった記憶があるのだよ。

NBAを観るといかに黒人プレーヤーが無双しているか、私はめちゃめちゃコービーブライアントのファンなのだよ。

 

ただ公園で出会い、たまたま君より20年くらい年上であるだけで、アジア人がスーパープレーヤーになるかもしれない原石にアドバイスとかして、ごめんね。

私が8歳くらいの時に、得体の知れないテキサス州出身のドアメリカ人に箸の持ち方を説かれた感じになるんだろうね。

君も年を経たら、アジア人にバスケを教わったことあったなっていうエピソードをすこし不思議に思ったりするかな。

 

子供は原石だ。いろんな原石であると思う。

に対し、大人たちは持って生まれたポテンシャルうんぬんでなく、年長者として各種技能は子供たちよりほぼ優れている。

だから、ものすごい原石であっても、大人は子供に教えられるし、子供は大人を尊敬してしまう。

師であることは、自尊心をくすぐられる。私も「プロみたい」の囁きは、久々に耳がダンボになった。

であるがゆえに、優越感なんかに浸ってはいけない。ただ年長者であるだけで、先人であるがだけで経験してきたことが君たちより多いだけなのだ。(あと背は"先に"伸びているだけなのだ。)

君たちが同じ経験量を持っていたら、全然抜かれている可能性大なのだ。

 

経験してきたことは誇りだけれど、裏を返せば経験は時の推移とともに自然に付帯してくるもの。

その瞬間、その公園の一画で師として振る舞うとき、私は自分の積み重ねたバスケの技能に感謝したし、君たちのポテンシャルを開花させたいと思ったし、開花して抜き去ってほしいと思った。

個人的人生としては時期尚早なのかもしれないが、次世代に期待するわくわくを感じてしまった。

 

その子、帰りぎわ握手してもらえばよかったな。

将来絶対覚えてないけど、「あのアジアン人がきっかけでした」的なこと言われたら超絶舞い上がるだろうな。という妄想をする平成最後の夏。

 

推理小説は上手に

伏線を回収する、という。

推理小説を読む際、物語の後半、怒涛の伏線回収モードに突入することがある。

読み手である自分からすると、伏線回収されまくりモードという方が近いかもしれない。

推理小説の醍醐味といえる。

 

ただし、伏線は回収されまくるものであって、自らで伏線を見つけてはいけない。

唐突に描写される伏線トラップは、見つけても見つけていないフリをしなければいけない。

お化け屋敷でクライマックスの仕掛けの電源コードをその手前で発見するみたいなことはあってはいけない。

上手にその伏線地雷を自然に跨ぎ越さないといけないあたりが、推理小説を読む際の心得であるように思う。

 

卒業式

体育館での各種催しを終え校門手前で本当の別れの挨拶を友人同士で交わす時、難しい。

あまり居座り続けてもいけない。あんまり仲良くなかった三人くらいで残ってしまったら最後のバイバイはその微妙な友人と交わすことになる。

一方であまり早すぎてももちろん寂しい。最後のふれあいタイムを存分に楽しめない。

 

どんなに6年間、3年間、4年間を振り返り総括してみても、本当の物理的な別れの一瞬がある。

ここが一瞬を成功させられる確率は結構低いと思うので、綿密な計画と打合せを事前にこなしておくことをお勧めする。

花見

ケツが冷たくなる。

花見はケツが冷たくなるに始まりケツが冷たくなったで終わる気がする。

 

頭上には刹那的に咲き誇る和の象徴「桜」。目の前には解放感と共に味わうことで昼から飲む罪悪感を打ち消すことができる各種アルコール達と、野外でほおばることで2倍は魅力を増すオードブル複数。

 

上半身で魅力をかき集めても、野球は下半身からとよく言ったもので花見でも下半身からじりじりと気力・体力を奪われる。

ケツから伝わる大地の冷酷さに飲み込まれぬよう必死に頭上と眼前に意識を集中させることで成立する花見。

 

桜は下から見上げることでより一層魅力を増す花であると画面越しに伝えてくれたのは所ジョージ所さんの目がテン!にて)。

所ジョージのコメントが生涯思い出される人間が地球上にいかほどいるだろう。

所ジョージの立ち位置を正確に説明できる人間が地球上にどれほどいるだろう。結構いる可能性あり。

 

花見は、不便なのがいい。

不便な所がないと思い出に残りづらい。

花見をアレンジするビジネスの一つケータリングを経験した際、花見の終わりコメントは「こんな便利なサービスあるんだ、片づけなくていいなんて良い所に目を付けたね」であることが多い。

外で便利だと少し萎える。

だから外で便利だったけどケツが冷たかったというエッセンスが貴重になる。

ケツが温かいと否応なしに寝れる冬の中央線は麻薬。

 

電源

「好奇心の電源を入れよう」

とある車のCMでキャッチフレーズとして使われていた。

好奇心の電源入れたい!入れて!と思う一方、何か違和感を感じた。

 

好奇心は本来その人の中からふつふつと沸きあがるものな気がするし、そうであれば「電源を入れる」という表現は何か不自然で作為的なものを感じる。

でも、日々好奇心を発露する場面が少ない人にとっては、いつしか埋もれてしまった好奇心に目を向けるという意味で「電源を入れる」という表現は的を射ている気もする。

 

ややこしいのが、私の場合仕事に圧倒され自分の時間が取れないと思えば思うほど、行動には移せないものの好奇心自体はむくむくと膨張する。やれない(結局やらない)のは判っているものの、だからこそあれをやったら、これをやったらと妄想が膨れ上がる。

一方で、一日予定のない日曜日は、膨れ上がったはずの好奇心がしぼみ続ける。

まぁまぁ必ずしも今日やらなくても、というタチの悪い悪魔が顔を出す。

 

好奇心の電源を入れた後、好奇心の電流を継続させる機能と、好奇心を行動に移すために物理的電気ショックの方が欲しいかな。人によるけど。

 

 

クレームをつけられる人

カフェ、居酒屋、混雑する役所。

いずれの場所でも見かけるクレーマーの方々。

私は遭遇する度、胸高鳴ることが多い。

 

なんだろう。

基本的にスタートは店側/客側、初対面同士なわけで、敬語で丁寧な応対からスタートする。

そこに何かしら気に食わないことが起きたとしてもだ、その関係性をぶち壊し場の空気を戦闘状態に移り変わらせるエネルギーがある意味すごい。

あの時、ほら貝が確かに鳴っている。

 

私が胸高鳴ると感じるのは(クレーマーの怒りの矛先が自分へ向いていないことが保証された上で)、クレーマーを取り囲む私を含めたオーディエンスが、見えない絆で結ばれながら温かい白湯に浸かり合っている関係性になると思えるからだ。

自らが抱えていたちょっとした待ち時間の長さに対する怒りの感情はしゅんと消え、お、なんかしびれる展開になってきましたなぁとサウナの横のおじさんと語りあう感覚に陥る。もしくは関ケ原の合戦を傍目に見ることとなった隣家の百姓同志か。

 

私の場合、場の空気がピリつくと、抜刀していないのに何故か賢者モードに入ることが多い。

母親が私の兄に対してキレている時は何故か宿題が捗ったし、職場で上司が他の社員を叱責している時は同僚にもお客さんにも丁寧に接することができた。

明日は我が身と気持ちを律しているのかもしれないし、戦時中における自粛ムードな感じもするし、とにかく火照った体に水をぶっかけられた居心地になる。

 

クレーマーに対しもう一つ感心するのは、感情と行動がもたらす結果の足し算の考え方が独特に思える点。

ここでふつふつと沸いた怒りを対面の人間にぶつけることで得られるかもしれないメリットと、メリットを得られないかもしれないリスク、ぶつけたことで周りからほぼ確実に得るヒンシュクというデメリット、メリットを得られたとしても何か暴れまわってしまったことに対する自己嫌悪というデメリット。

これらの個々の持ち点も気になるし、持ち点を足し合わせて結果プラスになると踏む計算式がすごい。多分メリットに対して係数3くらいかかっていそうだ。

 

僕は生涯クレーマー側に回ったことがあるだろうか。

憧れを抱いちゃいけないのは分かっているけど、なんか人として自分にないものを爆発させている人をみると尊敬する。

肉まん

肉まんを食べる。

コンビニに置かれる肉まんではなく、大阪出張で買ってきた551の肉まんである。

チルド製品ではあるものの、はや二週間ほど冷凍庫に入れ続けていたため、さながら石のような硬さとなってしまった。

解凍にはさぞ時間がかかるだろうと思い、渾身の1500W×5分で温め続けた。

結果、チルドとは別の種類の皮カッピカピ的猛烈に硬い肉まんが出来上がった。

良いように言えばフランスパンの表面みたいな硬さ、悪く言えば食いもんじゃないと脳が咄嗟に判断する硬さだ。肉まんのまんのニュアンスが欠落している。

けど、やっぱり味は旨い。口の中で噛み続けようやく柔らかさを取り戻したところで初めて551ならではの肉肉しくジューシーな風味が感じられる。

肉まんを食べて初めて顎が疲れた。ガム食ってるみてぇだった。

 

残り3人は。

カフェで隣に座る初老の男性がスマホでしきりに画面操作していた。

麻雀ゲームだった。手馴れていた。画面横にしてたし。

 

ふと思う。

そこには、かつては気のおけない4人組で打っていたはずの麻雀卓から、3人が消えている。

一人残された男性の図。

 

他の3人が今何してるのか気になる。

もしインターネット越しにその3人が変わらず卓を囲んでいたら少しは安心だけど、多分なさそう。

 

もう死んでしまったのかもしれない。

仲違いして、もう会わないって喧嘩した後一人欠けた状態で旅行に行った3人が雪山で遭難したのかもしれない。

もしくは、死んだのは病死で一人だけど麻雀は4人でしかやらないって決めた仲なのかも。

 

そう思うと同情が止まらない。

いないかもしれない人を3人殺して悪いのですが。

 

パンドラの箱に期待を込めて。

自分の声を録音し再生し、おののいた経験のある人は多かろうと思う。

これは自分の声が普段は骨伝導で聞こえているためであるらしいのだが、この物理的仕組みそのものにおののく人はそこまでいないと思う。

 

多くの人がおののくのは、恐らくこの他人として聞く自分の声がほとんど間違いなく「変な声」と感じるためである。

私の場合、そうして聞くと非常に鼻にかかった感じがし、説得力の無さが際立つ軽々しい声を発していると感じ傷つくことになる。

変化の仕方の違いはあれど、皆何かしら「思ってたのと違う」感覚を得るんだと思われる。

 

そして本当におののくべきことは、これが氷山の一角である可能性が高いことだ。

声に限らず、人は鏡で自分の姿を見、これを人様に見せている自覚で家を出る。

ところが、この姿が骨伝導経由で聞く声と同じ変化率があった場合、骨伝導を介さない私の姿は自分の思ってるのと違う、もっと変なものになっているかもしれない。

(テレビの演者は変な自分を普段から見れるため、軌道修正ができるのかもしれない。)

 

声と同じマイナス方向の変化があるとした場合、そしてその変化を突如知る場面を得た場合、穴があったらもう一段深くしてから中に入りたいとすら思うはずである。

 

遅刻ギリギリで寝ぐせを直さず向かった待ち合わせ場で友達から笑われることには耐えられるが、鼻毛が思わず飛び出ていることを知らずトイレの鏡前で愕然と発見し、自然を取り繕いつつ伏し目がちに席に戻る瞬間にはどうしても耐えられない。

 

あらゆる面接経験のある人は、あるいは事前に自分の受け答え動画を正面から撮影し、他者から見える自分を分析したことがあるかもしれない。

ツワモノだと思う。私には怖すぎてとてもできない。この経験をした人は乾布摩擦とかできるタイプのツワモノにしか思えない。

私だったらその動画を見た瞬間、その瞬間から一歩も外に出られなくなってしまう。

その動画には化け物が映っている。鼻毛が出てたとかそんなレベルじゃなく、もっとドギツイ部分がボロンボロンに飛び出ている恐れがある。

パンドラの箱としか思えない。

究極の臭いものには蓋、である。まさか自分が臭いものであるとは。

 

もっと言えばデパートで突如現れる磨かれ過ぎた鏡に出会うことも極力避けたい。

うきうきとした気持ちでブラついているその時に、突如柱影からサバイバルナイフを持った暴漢に立ち尽くされた感覚になる。

 

一方で。

鏡の前で前髪を頻りに気にする男子、誰もそんな些細な所気づかないよと思ってしまうほど微妙な化粧の色合いを補正する女子。

 

私はそこに一筋の光を見ていたい。

彼らは決してそれが他人から見た際の大きな加点になることは期待していないように思われるからだ。

では何のためか。

パンドラの箱を開けられないのであれば、少なくともそのパンドラの箱の中には実は臭いものではなく香り豊かなバラが敷き詰められている。敷き詰められているんだ!という強い自信を持ち続けるために、鏡の前から去るその1秒前まで自分としてのベストスコアの姿を脳裏にやきつけておきたいのだ。

焼き付いたらOK。箱は開けなくてOK。

 

結論、他人からの評価はコントロール不可なのであれば、そして世の中にはとんでもない世界記録を出す美の競合達がいることを考えれば、自分なりのベストな装備で戦い抜くしかないのだ。

 

そして、もし、ボーナスチャンスがあればなおいいなと思う。

骨伝導を介さない声が、実は自分では気づけなかったプラスの作用をもたらしていてくれたら、これこそ何にも代えがたいご褒美だと思う。

コンプレックスと感じていたそばかすが、思いのほか好評でとまどう女子のように。

 

そして、素であれ取り繕ってであれ、人から好評が得られない夜は、パンドラの箱にバラが敷き詰められていると夢見ながら、「なんでこの良さが理解されないかな~」と独り言ちながら眠りにつくと、バランスが取れるのかもしれない。

自分なりのベストスコアは(場合により無制限に美化されながら)脳裏に焼き付いているのだし、本当のパンドラの箱の底には希望だけが残っていたようだし。(Googleで調べた。)