名前

名は体を表す。名前負け。名に恥じぬよう~などなど、名前にまつわる慣用句は色々ある。

今日は名前について考えてみたい。

 

役所や病院で他人の名前を耳にすることがままある。この前は某旅行代理店であったが、隣の席で手続き中の男性は、漢字は不明だが、「アベ シンノスケ」と名乗っていた。隣で聞こえてしまった私は思わず横に巨人の四番が座っていないか確認を取ってしまった。

苗字のみならまだしも、フルネームすべて著名人と同一だと、名前から発せられるイメージに、自らが飲み込まれてしまわないか不安になる。巨人の四番なら、そのイメージが「責任感」や「決定力」や「強肩」など、プラスに働く要素が多いかもしれないが、以前同じ職場にいた先輩は、とある猟奇殺人犯と同姓同名であった。これは辛い思いをすることも多々あったであろうと同情する。

私なんかは、シュウヘイという名前をテレビで聞いたり本で出くわしたりすると、むずがゆい気持ちになる。最近だと野村周平という俳優がいるが、イケメン俳優であり「そうそう周平って名前はそうなんだよね~」となる。あまり周平にも中澤にもネガティブなイメージをもつ著名人は幸いいない。

自分が何かしらで将来有名になる際、すでに自分の名前と同じ人でめちゃくちゃ有名な人がいるか否かは結構大事だと思う。若手お笑い芸人で松本という名前の人がいたら、お笑い界での松本枠は完全に成約済なわけで、結構辛いと想像する。幸い中澤もシュウヘイも決定的な人材確定は成されていないように思われる。(リーチのかかっているレベルで、中澤はボンバーヘッドモー娘。元リーダーの強敵はいるが・・)

 

私だけでないと思うが、基本的に人は自分の名前は好きだと思う。慣れ親しみすぎて究極の愛着が湧いてしまうという感じか。私でいうと、「周平」はかなり好きだ。いそうで少ないし、「しゅーへー」の呼びやすさがあるし、「しゅうちゃん」「しゅうくん」等の派生もしやすい。「平」のもつ古風な感じと「周」というまろやかな響きが良い作用をもたらしている。(と勝手に思っている。)

 

できれば将来の自分の子供は、友人から「名前」で呼ばれる子になってほしい。小学生くらいは、みな共通して苗字で呼び合っていたが、中学・高校くらいになると名前の方が呼びやすい友人については、名前で呼び合う習慣へ変わっていく。

その際に、引き続き苗字で呼ばれる子の場合、得てして名前が呼びづらいか、苗字の方がキャッチーかのケースかだと思う。

なお、女の子同士なんかは親しくなりすぎて、一回苗字呼ばわりに戻るタイミングがある気がする。

 

〇〇顔なるイメージがある。例えば、ゆうすけ。ゆうすけは、各種漫画や有名人のイメージが先行して、やっぱりヒーロー感というか爽やか感というか主役感がある。そのイメージにドはまりしているゆうすけを見ると、「お前はゆうすけだな」と改めてかみしめる。

また、これは個人的な出会いが影響しているが、「あや」「あやね」「あやな」などは基本的に美人のイメージがつきまとう。「〇〇子」と最近では希少性のでてきた名前についても、その希少性ゆえに何か気に留めたくなる存在になる。

 

そう、これらの名前に対する個人的イメージは、保育園や幼稚園など社会との接点を持ち始めてからのち、さまざまな名前の人と出会い、各個人の「これまで会ったことある名前図鑑」が一枠ずつ追記されていくこととなる。

私で言うと30歳間近のタイミングで初めて橋本という友達ができたり、逆にナカジマという名前は各学校生活で必ず一人以上いたりして図鑑としては重複カードとなっている。将来各世代で出会ったナカジマ達を集めてナカジマの集いを開催したい。

また、あなたにとって「ナベちゃんとは?」と聞いたら、恐らくほぼ全員、自分のイメージする「ナベちゃん=ワタナベ」がいることだろう。

 

名前が無いとどうなるのだろう。

人物ではないが、聞いたことがある話で、「肩こり」がある。

日本では悩まされる人が多いこの生活習慣病も、フランスではそもそも存在しないという。

その理由は、「肩こり」という言葉が存在しないからだという。言葉が存在しない事象は、本当に存在しないことになるのだ。(フランス人は、それでもやはり肩に鈍痛がある場合は、なんと表現するのだろう・・)

「我思う故に我あり」みたいなことは難しくて考察ができないが、単純に人についても名前不在の状況があり得たらどうなるのだろう。

お互いを呼びづらいなど、実務的な弊害はいったん置いておいたとして、やはり自分が自分であるゆえんの「個別独特性」みたいなものは持ちづらい気がする。

犯罪者は監獄で数字やアルファベットで呼ばれるようだが、ものすごく自分の存在意義を薄められるだろう。

名前というキャンパスがあり、そのキャンパス上にみなそれぞれの色や絵を配置してきた人生なのに、キャンパス自体が消滅する感覚がある。

 

動物はどうだろう。

過去私は家族として2匹の犬がいた。(1匹はまだいる。)

よく散歩中に呼びかけてみる。「ラム」という名前なのだが、「ラム」と呼んでも振り向くが、「ハム」と言っても「たろう」と呼んでも振り返った実績がある。

動物に関しては、自分に対して発せられた音声に反応する、という感じなのだろうか。

少し寂しいが。

幼稚園から飼っていた犬は、そういえば一度改名させられている。ブリや落語家のごとく、

元々は「カール」だったのだが、我が家で引き取ったタイミングで、それこそ新たなキャンパス化を図るべく「パル」に改名。たまたま響きは近しかったが、ある日を境に名前の変更がされた愛犬はどんな心持ちであったのだろう。

 

キラキラネーム。

「キラキラネームはどうなんだ?」と世に疑問を投げかける人は、得てしてその名前をもつ本人とは直接関係性がない場合だと思う。第三者からみるから、キラキラ=けしからんと思ってしまう。

直接の友達や知人であったなら、初見こそ違和感があるかもしれないが、日数が経てば「たかし」や「さとみ」などと同様、その人を表すただの名前に過ぎなくなるだろう。

ただ、半濁音は入れないほうが良い気がする。苗字は基本的に変えられなく、日本人の苗字と半濁音は、牛乳と蕎麦感がある。