帰り道
夜道。男が、最寄り駅から我が家へ向かう道を歩いている。
20メートル前方。同方向に、小さな歩幅で歩く女がいる。
コツ、コツ、コツ。と響くヒールの音に、男の、スタスタスタスタと歩くテンポが、確実に夜道に共鳴していく。空気が一瞬、張り詰める。
月は、しんとした夜空につかず離れず二人の行く末を案ずるように、ひっそりと心配顔で浮かんでいる。
林立する街灯たちは、二人を出迎える忠実な執事のように、背筋を伸ばし整列している。
一秒経ち、二秒経ち、少しずつ確実に近くなる、コツ、コツ。と、スタスタ。
猫の縄張り意識に顕著なように、前を歩く女にもまた、自身の縄張り意識、すなわち対人距離感レーダーが、備わっている。女の年齢はまだ若く、レーダーはかなりの最新型、高感度である。
そのレーダー上に、確実に赤点滅マークのポインターで表されている、男。
男は、「私は危険人物ではありません。たまたま家の方向が同じで近づいてしまっているだけで、近づいたのちは何事もなく抜き去りますよ。」と後ろから叫びたい衝動に駆られるが、できない。
お互いの現在地、歩むペースの差からすると、女を抜きさり改めて他人の距離感となるまでに、かなりの距離を追走・並走・逃走する必要がある。
これらを極力短時間で終わらせる方法は、男がさらに速度を上げることであるが、どうだろう。
夜道、男が後ろから急に速度を上げ追跡してきたら、女にとっては、幾度か観た通り魔犯のニュースが想起され、不安になるだろう。
あるいは距離を縮めることを避け、一定の距離感を保つよう速度を緩めたら、どうだろう。
すでにレーダーで存在をキャッチされた男は、女にとって、いつまでも尾行を続ける怨恨持ちのストーカーと認識されるかもしれない。
仕事でどんなに結果を残した日であれ、愛する家族の誕生会へ急ぐ日であれ、男は「危険人物の可能性がある男A」として、女は「帰り道に恐怖体験をする可能性がある女B」として、急遽、舞台出演を強いられる。
顔合わせも、台本読み合わせも、練習もリハーサルもなく、二人の主演舞台の幕は、突如として上がる。
男は全くの潔白だ。したがって、この舞台では、女の安堵が伴う結末が待っている。
待ってはいるが、この舞台がその結末のシーンを迎えるまで、女のレーダー上で男が安らかな緑色のポインターに変わるまで、この舞台の幕は下りない。