宇宙

生きる上で考えなければならないことは山ほどある。

例えば、仕事のこと・家族のこと・老後のこと・平和のこと・来週の飲み会のこと・死後の世界のこと・ジャイアンツが調子悪いこと・O脚のこと・・。

身近なことほど考える回数は多い。個人的にはO脚のことは頻繁に考えている。

 

一方で、連日報道されていたことから北朝鮮問題なども考える順番は割と手前。自分なんかが考えを及ばせたところで砂ぼこりひとつこの問題に影響を与えることはできないけれど、何か飛んでくる可能性があると言われると急に当事者感も出てくる。

 

かと思えば、その日は彼女とデートがあるため、当たり前のようにピントを手前にぐーっと合わせ、レストランを検討しなければならない。

 

ところが仕事がひと段落したタイミングで、宇宙のことも考えてあげなければならない。これは順番は相当後ろ。後ろだけど、たまに物事を最初から順番にやりすぎて、疲れて、気分展開に後ろから手を付けてみたい衝動がある。夏休みの漢字ドリルがそうだった。後ろからも手を付けてみて、前からもある程度やっているから、いつしか気づいたら真ん中で落ち合って、完了していた時は嬉しかった。この理論で宇宙に手を付けるわけだ。

宇宙を考える時、わりとまずは北朝鮮問題に似ていて、宇宙が突如かたちを変えて、膨張だか縮小だかなんだかで地球の位置がずれてしまう。巨大惑星が地球の横を猛烈なスピードで通り過ぎる、とかでもいい。すると地球が木っ端微塵になるなら考える暇もなく死ぬからまだ良いとして、地軸が極端に傾いて異常気象連発で食料が採れなくなり血も涙もないドロドロの人類生き残り競争とかになったほうが手に負えない。重力なんかも変わっちゃって成立していたすべてのエネルギー施設とか交通機関が破綻して、やっぱり悲劇が待ち受ける。スポーツもルールや記録が成立しなくなる。

ロマンはあるけど、あくまでロマンの立ち位置でい続けてほしいのが宇宙。観測して何億光年前の光をいま観ているとか、夏と冬の星座の話とか、ビッグバンの話とか、XX理論とか、壮大なロマンの世界であってほしい。あまり近い距離まで近づいてこないでほしい。

 

O脚の話から宇宙の話まで、人間は考えるテーマが多すぎる。

どちらのテーマに寄り過ぎてもいけないことはわかる。本当は適度にテーマを使い分けたほうがいい。自動車のシフトチェンジレバーを変えるように。

たまに仕事で疲れ果てた人が自分の悩みのちっぽけさを知るために大自然を観に旅に出ている。発展途上国へ行き、貧しいけど幸せな人たちに会いに行くとか。あまりに資本主義社会の一企業のXX職の切り口で生活し続けたから、何千万年も続いてきた人類の末裔である切り口を思い出したいとか、生きているだけで本来幸せなことを思い出したいとか、そういう理由で。

 

難しいのは、テーマや切り口を変えることは言い訳にも使えちゃうことだ。その切り口で頑張り続けられないから他の切り口に助けを請う。そんなこと考えても無駄だよ人はいつか死ぬんだから、の究極の発想に近い。

だから、一番直接的に自分に影響のある、物理的に距離の近いところのテーマから向き合っていって、疲れてきたら自分の中で土日は違うテーマを中心に考えることにして、違う切り口での学びや一種あきらめを自分の懐の深さにして、また近い距離の世界に活かしていくしかない。

シフトチェンジレバーが巧みに使える運転技術を持っていたほうがいい。