AI時代

朝まで生テレビを観た。"激論!“人工知能・AI社会”と日本"がテーマであった。

 

AIを取り巻く世界情勢から日本企業の体質や教育制度、ベーシックインカム等の社会制度と、森永卓郎が童話を書き始めていることなどが議題にあがっていた。

 

落合陽一が発言していた、「介護に関して、機械と人間、どちらに介護をされたいですかと聞くと人間がいいと答える人は多いけれど、おしりを拭くのはウォシュレットかおじさんどちらがいいですかと聞くと大抵ウォシュレットを選ぶ。」という意見は、なるほどなと思う。つまり、いわゆる主語を大きく抽象的な言葉で、さぁ決断を!と投げかければ普通はビビるし現状維持を選ぶけど、ありありと想像できる具体例を、場合によって恣意的な例になることもあるのだろうけど、提示してあげることで初めて決められるってことはあると思う。おしりを拭く強弱・前後などはなるべくボタン一つで決定したい。

 

具体例をだしてあげることでその対象に対する恐怖心を一枚ずつはがしてあげること。

保護されて自然界に戻れない野生動物を、エサをちらつかせながら、一歩ずつ一歩ずつ前に進ませていき、ケージから出してあげる。

 

時代の流れは否応ないものだと思う。

AIが代替していったり新たに創っていったりする領域は確実に増えていくはず。なんかこういう技術面からの大波に、違う価値観によって人間が抵抗しまくり"勝ちきった"みたいなことって無かったのではないか。

だから、どれだけ短期的になのか不明だが、受け入れていくしかないのだと思う。

ほんとの上流、日本としていずれの方向性で、みたいな部分は、やはり政治家とか研究者とか各種の有識者に舵をとってもらうしかない。そういう意味で、従います。それらには。ただ、従いますが、ほんとうに実感を伴う生活レベルへの浸透については、やはり個々人、生活者それぞれのレベルで創意工夫は必要なんだと思う。

 

例えばスマホ

2018年8月についに母親がiPhoneに買い替えた。息子としては、遅いなとツッコみたい気もするし、よく踏み切ってくれたという感慨もあるし、もっとスマホにすることのメリットを強めにインプットしてあげればよかったな、という後悔などがある。

結構抵抗してきたらしい。もちろんガラケーでいることに強いポリシーがあったわけではないし、スマホに対する明確な怖さみたいなものがあったわけでもないらしい。むしろ、母親世代であれ友達もほとんどスマホだったようだし、実際家族で集まってもガラケーなのは母だけであったし、LINEグループみたいなコミュニケーションは取ることができなかった。

だから、早めに変えなきゃとはかねてより思っていたようだ。思っていたんだけど、自分なりの腹落ちのタイミングだったり、自分の思うテクノロジーとの距離感だったり、各種デバイスへの苦手感だったりで踏み込めていなかったのだそうだ。

 

ただ、踏み込んだわけだ。その決断に息子(たち)は全く関与していないし、父も同様だそう。つまり、およそ8年前くらいにスマホが日本でも普及を始めてから、ようやく母親なりの決断と具体的な行動の時が訪れたのだ。

重複するが、テレビでも街中でもスマホばかりだし、息子や孫でさえスマホで何やらやっているし、ガラケーで撮った画質の荒すぎる写真が送信エラーになることに嫌気が指したりなどもあり、ようやく母の中でのスマホ買い替えOKメーターが満タンになったのだと思う。

 

それでいいと思う。次世代テクノロジーの大波には従う。従わざるを得ない。国民とか消費者一般とかそういうくくりでは従うに賛成。賛成なんだけど、じゃあ個人として具体的に行動をいつ起こすかについては、個人レベルに任せていいと思う。

今回の母親の件でいえば、家族としての啓もうが弱かったのかもしれないのでやや反省だが、次のAIでももし同じ種類の決断が必要だとしたら、反省を活かしていきたい。やっぱり個人レベルでいえば、母親世代やもっと上の世代はもうAI時代なるものに適応をあきらめるかもしれない。ただ、適応せざるを得ないのが時代の波になるのであれば、母親の適応を助けるのは政治家でも研究者でもなくて、息子だったり友達だったり、孫だったりになる。身近なかーちゃん・ばーちゃんに、具体的にいうとこういう行動をすべきでその行動の仕方はこうでああで、これはお金かからないから大丈夫だよ、と優しく導いてあげる必要がある。もしかしたら次のOKメーターはダムくらいあるかもしれないけど。

 

カリスマ経営者の決断や超高性能チップによる演算結果で、超上位の部分での生活様式は今後も勝手に決定されていくのかもしれない。

だけど、そこから落ちてくる個人に求められる行動に対する個々人の腹落ちの仕方や理由は、意外とおまかせであることが実態なので、それに対し手を取り助け合っていくのは家族や地域などの身近な存在であることは変わらないはず。

 

「かーちゃん、こっちの自然は敵なんかいないから、ケージから出よう。一歩一歩。大丈夫、無課金だから。」

 

身体感覚②

世の中にはいろいろな尊敬の形、尊敬する分野、尊敬の表し方があると思う。

仕事ができる上司・先輩の姿を見て尊敬し、自分の趣味の分野で大成している人を見て尊敬し、尊敬するがゆえに真似をしたり従順になったりその人の本を買ったりする。

 

生まれてこのかた、誰をどんな順番でどんな理由で尊敬してきただろうと思い返す。

物心つかない時は、無かった。少なくとも意識的には尊敬の感覚すら存在しなかった。親兄弟が自分の生を成立させてくれているという意味では、振り返って尊敬が止まないが、当時の感覚ではない。

幼稚園、小学校低学年でも同じような理由で思い浮かばない。

中学年、高学年となってくると、現れたきたように思う。板書がことごとく上手い先生や、自分ができない教科で満点を取る同級生、また同い年にして学校以外のコミュニティで年齢の違う友達を作っている三輪くん。この頃は、「尊い」「敬いたい」といった感覚ではなかったが、とても近いニュアンスで「憧れ」であったのだと思う。

「被・尊敬」という意味ではどうか。わからない。わからないなりのぼんやりとした回想だと、定番の足の速さ・背が高いこと・犬を飼っていることなどで、「うらやましい」という言質まで確認できていた気がする。

 

中学校・高校・大学の世代では、尊敬の形も分野も表明のし方も、各個人のバラつきが出てきたように思う。

引き続き、「身体」としての顔や背や運動能力を尊敬(=憧れ)の対象とする感覚は持続していた。

 

一方で、同い年にしてすでにある特定の分野に深く没頭している人を見ることでも、尊敬を感じていた。ほぼ同じ時間生きているはずの彼・彼女は、とあるタイミングでその分野と衝撃的な出会いを果たし、エネルギーをほぼその一点に効率的に注いでいる。そんな友達の話は聞いていておもしろかったし、尊敬したし、まだ出会いが無い自分は焦りを感じていた。

 

振り返って尊敬していた人を思い出すことは、当時の嫉妬やイラ立ちの感覚を連想するのが良いのかもしれない。

テストの点数で負けるとか、バスケの試合で負けるとか、すでに彼女がいるやつを妬むとか、今思い返せばあいつの努力や才能は尊敬できた、とか思えるけど、それがまだ嫉妬やイラ立ちだった頃は、尊敬と正反対の感情であったように思う。振り返りあっぱれであった、という感じ。

 

学生時代から今に至るまで、圧倒的に尊敬する分野がある。「お笑い」ができる人。ここでは、いわゆる職業としての漫才師やコメディアンという意味ではない。クラスや部活や配属部署で、何をどう語らせてもこの人の発言にはプラスの意味の笑いが宿る人がいる。義務教育をどう振り返っても「お笑い」は必修科目にはなかったし、今もなお「センス」という言葉と繋がりが強いし、そもそも社会において「お笑い」がいかに重要かを丁寧に説明されたことがないのに、自然とできる人たちがいるのだ。

各組織に存在するこの「お笑い」の担い手は、様々なタイプがいる。力技で笑いをねじこむ力士タイプの人もいるし、場の空気の一瞬の間をつかみ的確な比喩を打ち込むスナイパータイプとかもいる。とにかくこれを身につけている人に出会うと、尊敬もするし茫然ともするし、出会えてよかったなと思うし、普通に一緒にいて笑えて楽しい。その人は本質的に成長させてくれる人なのかとか、うわべだけのコミュニケーションなんじゃないかとか、そういう見解もあるけれど、その見解はレイヤーが違う感じかな。身体感覚として笑ってしまうのは間違いなく"本当"だし、居心地がいいんだもの。

私で言うともう少し飛躍してしまい、笑いのタイプに差はあれど、笑いを提供できる人は絶対的に頭がいいと思ってしまう。つまり、本人が意識的か無意識的にか、この事象ってこういうことじゃないの?とか、ここはここの点が実はつっこみどころなんじゃないか?とか、これってもしかしてこれに似てるんじゃないか?とか、何気なく流れている会話の中から、笑いの起こり得る原石に「そもそも気づく・掘り起こす・他の石と比べる」ことができる。そして、これだけでは成立しなくて、そのポイントを的確に、選抜した相手に対し、絶妙な声量とワードで発信できるわけだ。この発信上手な人は、例えば20人くらいで行う会議で隣に座られると、きつい。披露宴の同卓でもいい。いかにジョークは禁止の空気感の会議だったとしても、私というピンポイントに狙いを定め、ささやきの一撃を放ってくるからだ。こういう人は、これは20人全員に発信しても微妙な空気になることも備わった感性で察知している。あえて一人一殺に集中できる、アサシンタイプなのだ。

この原石探しと狙撃手としての腕前が両立していることは、意図的であればあるほど「頭がいい」と思う。私はで言えば、それに対して尊敬の念を抱く。

 

社会人、仕事に従事するようになってからはどうだろう。(すみません。経験上、仕事=事務職的なことを前提とします。)ここでは、学生時代に核となっていた身体的な側面での尊敬は、相対的に押しやられてくるように思う。代わりに、いわゆる「従事しているところの仕事ができる」ことへの尊敬が割合をあげてくる。段取り力・渉外力・マネージメント力・決断力などだろうか。ここは否定できない。自分がその仕事に従事している以上、必要とされる様々な武器を身に着けている人たちであり、尊敬しないという方が難しい。

一方で、仕事面では尊敬できるけど、人間的には尊敬できないという感覚がしばしば登場する。これもあり得ると思う。仕事以外の時間で過剰なまでに尊大な態度をとる人とか、酒を飲ませるとやばいとか、家庭がぼろぼろだとか。こうなってくると、本来率直に感じるべきである尊敬という感覚が、ややこしくなってくる。それでも総合点として尊敬している場合は、無意識的に、意図的な尊敬にシフトしているのだと思う。

 

ふと思う。いつからだろう。学生時代、花形はやっぱりドがつく現場だった。現場と言うのはつまり、物理的な意味での存在そのもの・物を自在に動かすこと・物を自在に変形、発生させること、などの身体的な活動に直接的に関連する分野だ。顔立ちがいい・足が速い・力持ち・歌がうまい・絵がうまい、など。自分そのものである「身体」もしくは「身体による活動と直接的に結びつく結果」を輝かせている人は魅力があり、同じ四肢をもつ人間として圧倒的に平等なのに、差がつくから、その差分が尊敬に昇華するのだ。素直に、優劣があるのだと思う。

 

もう少し大人になってから登場する、みんなでバーベキュー。ここでも花形は、やはり野菜を刻み、火を起こし、鉄板の前から死んでも離れないタイプの人であり、ド現場こそ、みんなが目指したい尊敬のポジションにあたるのだと思う。火の粉が飛び散る中、苦し気な表情をしながらもな肉の焼き加減に集中できること。適切なタイミングで風を起こし炭に当てられること。やはり圧倒的に身体そのものと密接な活動をしており、バーベキューの日程調整・場所の予約・清算を担った「現場という意味での裏方」よりは注目される。

 

しかし、会社に入り、より上流の仕事や第三次産業的な分野に従事すると、身体での活躍はさほど必要ない。打合せにいく道中、駅の階段をたくましく一段飛ばしで駆け上がる上司は求めていないし、達筆な議事録も大事なのはそこじゃないと一蹴される価値観が多めだろう。むしろ、身体的には圧倒的に平等もしくは若さゆえに自分の方が細胞レベルで優位な状況だとしても、いかに短時間で資料を作れるかとか、発注先に冷徹な期限を設けられるとか、そういうスキルが求められており、細胞レベルはあまり関係ない。

 

良いことなのだと思う。結局、身体感覚に共鳴するか否かで尊敬の有無を決めるということは、言ってみればホモサピエンス時代の発想なのかもしれない。高度な文明へと発展を遂げた今は、かつては埋没していた能力が必要とされ表明できるようになったという意味で、尊敬の対象としての多様性も広がり、人類全体として進化を遂げているのだと思う。

 

ただ、スポーツ選手やものづくりの職人や、歌手や、「身体のみで優位を表明できること」に対する尊敬は、今後も消えないことだけは間違いないと思う。消えないし、私個人で言えば、その優位性に対する尊敬は、四肢を使う人間である以上、常に最上位かな。

そして、「お笑い」ができる人も。物理的な行動という表現とは違和感があるが、基本的にやはり生まれついた身体のみからの発信を行っているという点で、"同じ四肢をもつ人間として圧倒的に平等なのに、差がつくから、その差分が尊敬に昇華するのだ。"なのかな。

 

 

 

 

 

身体感覚①

炎天下の建設現場。蝉の声すら認知できないほど朦朧とする意識の中で、サイズの合わないヘルメットの内部は極限の湿度まで高まっている。単身世帯用アパートメントの3Fまで、背丈の1.5倍は長い木材を抱えながら、狭すぎる通路を往復する。次の一歩を踏み出す左脚の感覚が鈍り、資材を抱える両二の腕がバイブレーションを起こす。頭上には同時現場となった壁紙職人が敷設した古びた裸電球がゆらゆらとぶらさがっている。3Fまで運び終えると、さながら競泳選手が壁をタッチしたのち一瞬たりとも止まらず折り返すように、俺も階下へと駆け降りる。

 

俺が見えている世界。

眼下に続く下り階段。体を折り曲げなければ接触する裸電球。滴り落ちる汗。いつまでも舞い上がっている謎の粉塵。とにかく次の資材にたどり着くこと、その一点のぶれない意識。

今はどんな文化的な記憶も理想も選択肢もない。身体がそれらを雑念と位置づけ、その雑念を拒否している。はやく、次の資材を運ぶのだ・・!

 

というような仕事は世の中にはある。

その仕事に携わった期間の長短により慣れと技術に差はあれど、物理的にモノを運び・壊し・打ち付ける等を担う職は21世紀でも健在だ。健在どころか残り続けるのは得てしてこういう仕事なのかもしれない。

極端に表現すれば、彼は死ねる。文字通り、死ぬことが可能。なお正確に表現すれば、死ぬことがたやすい状況にある。230cmほどの資材を背中にかかえ上下階を往復していれば、その一歩を間違えば資材の重みの下敷きになり、致命的な一撃を受けかねない。彼はこの仕事に携わりまだ一週間。恐らくビギナーが一番死にやすい。

 

彼はやり終えた。自らの”まだ死にたくない”という根源的欲求というか動物的本能というか、無意識な魂がむき出しになり、次の一歩を正解し続けた。

彼は現場の最寄り駅まで歩く。喉がからからに乾いている。コンビニに入り店員といちラリーでもコミュニケーションを図る気力も体力も尽きている。自販機を探す。しなびた自販機を発見する。爽健美茶午後の紅茶・オレンジ風味のいろはす。これらには目もくれずポカリスウェット一択。

極限まで追い込まれた人間は、カフェインがどうとか軟水を使用してますとか、どうでもいい。義務教育開始と同時期に染み付いた、肉体的に乾きを覚えた際はポカリスウェットという条件反射に従うことしかできない。一本目をほぼ一気飲みし、二本目をすぐさま買う。小銭がなかなか掴めないほどに、指先の筋肉が震えていた。

 

~1時間後~

 

意外とすぐ回復した。ふ~。

そのまま家に帰るのもどうかと思い、得意のルノアールでアイスコーヒー水だしをちょびちょび飲みながら思いにふける。

あの時俺は、常軌を逸していたと思う。実際に常軌を逸するか否かの選択に迫られなかっただけで、俺が死なないか死ぬかの選択に関わるノイズがあれば、そのノイズをいかなる理由であれ発した奴を突き落としていたと思う。突き落としていたし、あのタイミングで昨日のドラマの感想など聞かれた日には発狂していたかもしれない。あらゆる文化的な思想など俺の身体から消え去っていた。

所詮、文化的な、現世に言う人間的な、そして豊かな、なるものはその次の一歩を踏み外したら死ぬ人間の前では無力だ。そんなものはこの世には無いのではなく、そういう人間からしたら、存在するか否かの問いすら無いのだ。

この道数十年とおぼしき職人は、流行りの電子タバコの銘柄を同僚と論議しながら資材を運んでいた。そう、俺が言いたいのはこういう仕事はうんぬんではない。個人の技量がどうこうでもない。俺個人という身体がそう捉えていたというただその事実だ。

 

日大アメフト部問題。あえての。

至極自明なことだと思う。至極人間的な危機回避なのだと思う。何も文化的な判断ができる次元であったわけではない。彼は人間としてもっと自律すべきだった等の批判は、彼が直面していた問題とレベル感が異なる。

自身にとり完走できるか否かぎりぎりの距離をマラソンしているとする。あと200メートルが死ぬほど遠いと感じるあの感覚。肺が悲鳴をあげており手足がマネキンのように感じるあの感覚。これまで学んだ全教科・家族を含むすべての人間関係が意識から飛ぶあの感覚。精神的な面で言えば、何を言っても相手から「否」で返されるとき、選択肢を事実上ひとつにしぼりこむ条件提示を執拗にしてくる上司・恋人に対面したとき。精神は肺と同様悲鳴を上げる。

そんな感覚の折、相手選手の行く末・母校のチーム存続の今後・世論の受け止め方なんて考えられるわけがない。ただ目の前の、死なないために次の一歩をいかに踏み外さないか、それしか見えない時があり得るのだ。

この感覚から帰結する結果についてのいかなる批評は、意味をなさない。世間的には意味ある見解でワイドショーが終わったとしても、次に追い込まれる人間がでてきた際に、何の予防策も提示しない。

 

だから、彼があの事件発覚後、何週間後に謝罪をしたってしょうがない。しょうがないというか、本質を突き得ない。

松本人志が言っていたように、酔っ払って事件をおこした人が何日か後しらふの状態でもう二度とやりませんって言ってもしょうがないというのは真理だと思う。酔った状態でなお、今後はやりませんって言わないと意味がない。だって、置かれている身体的危機感がその時と後日とでは違いすぎるから。追い込まれた人間は、あらゆる文化的見解なんて選択肢として上がらない。

 

つまり、文化的な判断ができなくなる前に休憩をとる制度を採用したほうがいいとか、精神的に弱い立場の人間を追い込まないほうがいいとか、そういう安易な対策は本質を射た議論ではないということだ。

リスクというか、本来一番腹落ちしなければいけない、人間としての性質を再想起することが現代においては重要だということだ。

人間は動物だから、”やばい死んじゃう”とか、”いったん止まりたい”とか、”3秒後生きてたい”とか、そういうレベル感が最終的にある。そのレベル感に達した人間はもう止められない。

文化的な理論とか制度とか救済策とか、人類は進化しているから認める方向でいきたいけど、そうやって自尊心を高めていきたいけど、それは身体的な感覚を無視していい免罪符にはなり得ない。

泥臭い、過呼吸気味の、ポカリにただすがりつくことしかできない人間がふと目の前の建設現場にいることを想像できないと、脳みそだけでかくなった顎が逆三角形の宇宙人になってしまう。

 

フルーツの王様

中野駅の男子トイレ、手洗い場の鏡の前に、丸かじりされ芯だけになったリンゴが落ちていた。

死後の腐敗はまだ始まっていないと見てとれたため、恐らく食後3時間以内と思われる。

 

中野にターザンみたいなやつが少なくとも一人以上いることがわかった。

この加工食品あふれる現代で生のリンゴを食すことを決定したターザン。

買ったのか、拾ったのか、むしりとったのか。リンゴ畑は恐らく近くにないはずなので、つまり拾った選択肢も限りなく0として、買ったのだろう。

 

ディズニー映画みたいに芯だけのリンゴだった。

あそこまで芯を露わにしたということは、かけた時間はそれなりだったのではないか。

トイレで長時間、日中帯にリンゴにむしゃぶりついてても通報される気がするので(何の罪にあたるかのか)、たぶん改札に入る前から食べ始めている。

 

かじりついたリンゴを左手に、スイカを右手に、入場したと思われる。

フルーツ大好きだな!

 

 

いや、リンゴかじるくらいの人だから切符か。

 

徒然(2)

■見ちゃうポイント

人それぞれ、人のここすごい注目して見ちゃうポイントってあると思う。

私は、生放送の番組で「続いてはこちらのVTRです、どうぞ!」と言った後なかなかVTR開始とならない間の2~3秒にみせる女子アナの表情。

何かを我慢する表情に似ている気がする。

 

BOSEのスピーカー

買った。型落ちモデルだけどいい。何がいいって低音が強くていい。

低音は何かいい。たぶん、恐ろしく球威のある直球を投げ込まれてキャッチャーミットの真芯で捕球した際の振動と心地よさが似ている気がする。(経験無し)

 

■花火大会ダイジェスト

ローカルテレビで全国各地の花火大会の録画放送を観た。

あたりまえだけど申し分のない地点・角度からの花火鑑賞。

花火を文字通り堪能するなら文句なし。

だからこそ判った。花火を現地に観にいきたい衝動は、花火を観たいわけではない。

 

■多分

短編の推理小説が一番恐ろしい。犯罪は短編内で解決されても、そこに登場した不気味なキャラクターの全貌が明らかにならないまま終わる感じがするからだ。

そのキャラクターの生涯や描かれていない猟奇的な性格など、もしかして在ったんじゃないかと恐怖の妄想が広がり話が終わる。

 

■多分②

これ一生好き。

雑種は我が家だけのオリジナルだから可愛いよ。

youtu.be

 

ひとりの時間の過ごし方

お題「ひとりの時間の過ごし方」

 

今日のお題は「ひとりの時間の過ごし方」。

 

休みの日は何をしていますか?は、初期コミュニケーションで頻出の問いと思われる。

これに対する答えっていわゆる本音と建て前の世界だと思う。

 

本音の部分をいうと、恥ずかしながら私は恐ろしいほどにドキュメンタルのツボに入ったシーンを繰り返し見続けているし、一度気になったスーツにつく白い埃をガムテープで永遠に取り続けていたりする。疲れがたまった日はYouTubeで好きな思想家のチャンネルを3/4以上眠りながら流し続けている。

 

というような回答は初期コミュニケーションでぎりぎりまでひかれるもしくは次の会話への発展性に乏しいので、建て前用の回答も準備している。

「読書・映画鑑賞・ランニング・バスケなどですね。友人と飲みに行くことも多いです。」

「二日休みがあれば一日はアクティブに、一日は家にこもって好きなコンテンツをじっくりと堪能しています。」

あたりが収まりのいい回答に思える。

 

趣味とは?に対しては、「時間を、我を忘れて没頭し気づいたら夕方」になり得る領域だと聞いたことがある。

そんなことって結構難しいと思う。移動時間、現地での活動も含めてハイキングなんかに出かければ気づいたら夕方にはなるのだろうけど、例えばジグソーパズルを始めてやっと少しばかり形が見えてきて気づいたら夕方5時のチャイムが外から聞こえてきましたなんて、ほんとに好きなんですね、を超えてなかなかすごい集中力ですね、という方に感心してしまう。

 

そう、没頭するってことは、ほんとにその物事が好きだということに加えて、絶対的に集中力が必要となる。家の中、クーラーの効いた快適な部屋でパズルに取り組んでいれば、テレビもあるしトイレもすぐいけるし突然の来訪者があるかもしれない。そんな中断がありながらもなお没頭し続けるってのは、好みという「天性」と集中という「努力」が合致している気がする。

 

私で言えば読書。あるあるとも思うが、家の快適なソファーでさぁ読むぞというスタンスは苦手である。どうしても文字がすんなり頭に入ってこない瞬間や読めない漢字が現れることはままある。そうなった時、家だとすぐ別の本を開いてみたり無駄に氷を作り始めたりしてしまう。

やはり公共機関や病院の待合室なんかが読書にはベスト。限られた時間で他に注意を向けるものもほとんどなく、ほどよい雑踏でもある。外にいるからこそ、本と私は唯一の肉親同志のような親密な関係になって、本とひそひそ対話できる。

 

憧れる「ひとりの時間の過ごし方」像。(嘘)

・オンラインショップで気になる木刀の底値を探している。

・家にろくな調理器具もないのに豚骨スープを作り始める。

・スタバで競馬。

・上野公園でハトに餌をやる人を本気で注意する私的警察業務。

・丸の内界隈を柴犬5匹くらい連れて散歩。下駄で。

 

一人の時間は、リラックスモードと自己研鑽モードを選択できるけど、今日はどうしますか?

 

…リラックスで。。

 

になりがち!

好きなビール

お題「好きなビール」

 

はてなブログにお題スロットなる機能があるので使ってみます。

 

好きなビール。ビールは基本的に好きだけどどの種類が?とかどんな所や誰と飲むビールが?という設問なため、ビールが好きでない人には問いから成立しないと思われる。

 

たかし:好きなビールはありますか?①

よしお:いえ、ビールは炭酸がきついし苦いのでそもそも苦手です。②

たかし:そうなんですね。とはいえ、普通と辛口だったらどちかが好みですか?③

よしお:いえビールは飲まないんですけど…どちらかというと普通の方ですね。カレーでもなんでもあまり辛口を好む傾向にはありません。④

たかし:ありがとうございました。⑤

結論:よしおは辛口ビールが好き。

 

みたいなことって結構あると思う。

会社で目標決める時とか、旅行のプランを決める時とか、沖縄基地問題を話し合うとか。

話の流れ上、やみくもにNoを主張していると場の空気がおかしくなるので、よしおは一旦質問③に対し④というAを返す。"カレーであれば"など、Aに対する補足も述べているのだが、たかしは④というAが"あった"のを良いことに、①②のQAを無視あるいは逆の前提で話を進めている。

統計情報として、やっぱりよしおは辛口ビール派に分類されるだろう。本当はそもそもビール飲まないのに。

 

WEB上のアンケート等であれば、ある程度正確に自らのAを分岐させるタイミングあるので、このずれは起こりづらいのかもしれない。

しかし、人と人が相対する会議の場では、このねじれは結構発生すると思う。

会議や話し合いの時間は限られているし、出席者は立場や年齢や性別が色々違うし、その会議はかれこれ3回実施しているが結論が出なかった会議の延長戦なのかもしれないし、人は人の意見を結構すぐ忘れる。

世にいうファシリティーターなんかは、いかに皆の意見を余さず反映させた上で効率的に会議の結論を見出すかという能力に長けているのだろう。しかし、得てして意見の収集方法は上記のビール問題みたいだったりするし、そこから出された結論は、一種"結論を出すことがクリア条件のゲーム"でのゴールのように思える。

 

かと言って、「いやいや会議開始10分くらいで置いた仮説が実は納得いってなかったのでこの結論には賛同しかねます。」みたいな態度を続けてても次のアクションに繋がる合意形成は永遠にできないわけで、後出しは埒が明かないので禁止としたほうがいい。後出しは禁止だけど、この会議及び会議から導き出される結論は、開始10分で置いた仮設を前提としていますという文言を皆が見える形でホワイトボードにでかでかと書いたまま会議を続け、会議終了後にみんなで音読するくらいが正直な会議なのではないかな。

 

話が専門的で仔細な領域に入ってきてこそ、後出しちゃぶ台返しは禁止しつつ前提をチラ見しながら進めていくのがいいのではないだろうか。

 

といように私も上から下に水が流れるがごとく書いている時点で、上流の方にちりばめられた仮定が存分にあるので怪しげな文章である。

論文なんかは極力この怪しさを排除するために予見できる反論に対する反論を随時挿入しているだろうし、この部分は立証されていますというのを他の論文の引用に一任したりしていくから、長文にならざるを得ないんだろうな。

 

死刑制度の是非を問う討論番組で、番組終了5分前に、「そもそも死後の世界は現世より幸福に包まれているので死ぬことを絶対悪だと捉えている時点で以降のいかなる議論にも私は参加すらしておりません。」とかはキツイなぁ。

意見自体はOKと思うけど、「先に言ってよぉ~(泣)/sansan風に」だろう。

 

平成①

(生まれはぎりぎり昭和であるものの、)実質平成を生きた世代として、平成をしっかりと認識し、語れる、いち市井でありたい。

文學界の、「平成くん、さようなら by 古市憲寿」を読み、改めて書く。決意と備忘。

www.bunshun.co.jp

 

平成と同年数の齢である自分として。

江戸時代の人は、大正時代の人は、昭和世代の人は、と元号区分で少なからず語る機会があるものとして、平成とは。を自分なりの体験を通じて後世に語れる準備を進めたい。

結構重くなる予感。人生で一番濃い期間であることは自明だから。

主に「繋がり」「諦観」をテーマとして、かな。

 

帰り道

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夜道。男が、最寄り駅から我が家へ向かう道を歩いている。

20メートル前方。同方向に、小さな歩幅で歩く女がいる。

コツ、コツ、コツ。と響くヒールの音に、男の、スタスタスタスタと歩くテンポが、確実に夜道に共鳴していく。空気が一瞬、張り詰める。

月は、しんとした夜空につかず離れず二人の行く末を案ずるように、ひっそりと心配顔で浮かんでいる。

林立する街灯たちは、二人を出迎える忠実な執事のように、背筋を伸ばし整列している。

一秒経ち、二秒経ち、少しずつ確実に近くなる、コツ、コツ。と、スタスタ。

猫の縄張り意識に顕著なように、前を歩く女にもまた、自身の縄張り意識、すなわち対人距離感レーダーが、備わっている。女の年齢はまだ若く、レーダーはかなりの最新型、高感度である。
そのレーダー上に、確実に赤点滅マークのポインターで表されている、男。

男は、「私は危険人物ではありません。たまたま家の方向が同じで近づいてしまっているだけで、近づいたのちは何事もなく抜き去りますよ。」と後ろから叫びたい衝動に駆られるが、できない。

お互いの現在地、歩むペースの差からすると、女を抜きさり改めて他人の距離感となるまでに、かなりの距離を追走・並走・逃走する必要がある。
これらを極力短時間で終わらせる方法は、男がさらに速度を上げることであるが、どうだろう。
夜道、男が後ろから急に速度を上げ追跡してきたら、女にとっては、幾度か観た通り魔犯のニュースが想起され、不安になるだろう。

あるいは距離を縮めることを避け、一定の距離感を保つよう速度を緩めたら、どうだろう。
すでにレーダーで存在をキャッチされた男は、女にとって、いつまでも尾行を続ける怨恨持ちのストーカーと認識されるかもしれない。

仕事でどんなに結果を残した日であれ、愛する家族の誕生会へ急ぐ日であれ、男は「危険人物の可能性がある男A」として、女は「帰り道に恐怖体験をする可能性がある女B」として、急遽、舞台出演を強いられる。

顔合わせも、台本読み合わせも、練習もリハーサルもなく、二人の主演舞台の幕は、突如として上がる。


男は全くの潔白だ。したがって、この舞台では、女の安堵が伴う結末が待っている。
待ってはいるが、この舞台がその結末のシーンを迎えるまで、女のレーダー上で男が安らかな緑色のポインターに変わるまで、この舞台の幕は下りない。

 

モヒカンのリスク

 1,000円カットに通っています。

デビューは町の床屋から自己ベストは表参道の美容院まで経験したのですが、よく男性陣が経る道筋かとは思いますが「ただ髪の毛が短くなれば良い」の初志貫徹が本筋であるという結論が出まして、そういうことにしています。

特に、回り道やこだわったサービスなどせず、最短ルートで散髪を完了させてくれる点を評価させて頂いていますが、そこには様々なリスクがあると感じております。

 

先日も行きました。

入店、着席、散髪が開始された頃、右の席にややオタク寄りと思しき青年がピットインしました。

私を担当してくれていたのはいわゆる店長(ぽい人)であったのですが、その青年の担当についたのは恐らく店長のお母さん(推定70~75歳)でした。

職人世界の床屋であるため、年齢は上であるほど確実な技術が見込めるという点で、まったくそこにリスクはないと思います。

 

が、時勢感というか言語感覚というか、このあたりをお母さん世代の職人とがっちりスクラムを組むことはなかなか難しいことだと気づかされました。

 

着席した青年に対しお母さんの質問から始まります。

(母)「どんな塩梅にしますか?」

(青)「えーっと、ちょっと横部分が気になるので、短めにしてください。あとは全体的に少し短くしてもらって、あと髪が重いので少しすいてください…。」

(母)「てことはモヒカンでいいね?」

<ここは早かった>

(青)「いえっ違いますっ…!モヒカンではなくて、全体を短めにしてもらえれば良くて…」

(母・青)後続の会話へ続く

 

危なかった。

ミスコミュニケーションが発生したことにより、普段はチェック柄の長袖を愛しコミケの開催を待ちわびる一介の青年が、突如モヒカンという過激なファッションを身にまとうところだった。

私がかいた汗は、高速で走るトラックの目の前にあわや少女が飛び出してしまうのを見るがごとくヒヤリとしたものだった。

 

どんな塩梅かと尋ねたファーストクエスチョンからここまでかというくらい近道をして最短距離でモヒカンへと帰結させたお母さん。

なかなか切れ味鋭いナイフを持っているようで、過去何人もの屍を生み出していた可能性がある。

 

というように、1,000円であろうとなかろうと、職人と同一のイメージを作りがたい散髪という行為においては、一にも二にもコミュニケーションが大切ということだろう。

そして、万が一誤発注があってモヒカンになったとしても、ほ乳類の良さとして一ヶ月もあればソフトモヒカンまでカバーできるでしょうし。

 

徒然(1)

■もう、やめへん

オリンピックやワールドカップ、その他各種スポーツの勝敗予想について。

 

プロ野球

アナウンサー:本日の日本シリーズ、ずばりどちらが勝つでしょう?

解説者:実力の差がありますから、ライオンズが優勢でしょうね。

                 ただ、野球は最後まで何が起こるかわからないスポーツですから、結果はわかりませんよ?

(サッカー)

アナウンサー:本日のワールドカップ決勝、ずばりどちらが勝つでしょう?

解説者:実力の差がありますから、ブラジルが優勢でしょうね。

                 ただ、サッカーは最後まで何が起こるかわからないスポーツですから、結果はわかりませんよ?

(バスケットボール)

アナウンサー:本日の全日本選手権、ずばりどちらが勝つでしょう?

解説者:実力の差がありますから、トヨタアルバルクが優勢でしょうね。

               ただ、バスケは最後まで何が起こるかわからないスポーツですから、結果はわかりませんよ?

 

もう、やめへん!?

スポーツは、どの競技であっても、最後まで何が起こるかわからへんから!

いろんなコンディションとか相性とか不確実なハプニングとか絡み合って、何が起こるかわからないっていうのは、一番当たり前やから!何が起こるかわかる競技なんてないから!

もっと言うと、何が起こるかわからないのはスポーツだけじゃないから!

もう自分の担当している競技のみ「何が起こるかわからない魅力的な競技」みたいに解説する人、やめて!

 

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■わがまま

熱帯夜。クーラーつけると寒いし、消すと暑い。スイッチのON/OFFを繰り返すとき一番、自分ってわがままボディだな、と思う。

 

■これしかない

テロ。無差別殺人。不慮の事故。

生きる上では不確実に発生するこれらのリスクと向き合わなければならない。

善人であれ悪人であれ、自分が被害者になるか否かは残念だがこれはもう確率の問題でしかない。

どんなに制度で予防策を立てたりしても、覚悟をもった犯罪者には太刀打ちできないし、被害という意味では天災も完ぺきには防ぎようがない。

 

だからもう、体のラインに沿って形作られる無色透明なバリアを一人一人身につけることが最強のディフェンスだと思う。

昔、鬼ごっこで「バリアー!」という特殊コマンドを発動していたが、あのイメージだ。バリアを発動すると、何人たりとも、私に直接的に触れることができなくなる。

バリアはどんな物理的な衝撃からも身を守ってくれる。ナイフも突き抜けられないし、爆発物も当たらない、倒れたタンスの衝撃も吸収する。水の中でも中にある酸素で呼吸ができたら完ぺきだ。

こんなシールドバリアを何よりまず、開発できないのだろうか?

 

バリアがあることで、身体的な安全確保がされれば、心の健全性も保たれるのではないか。

学校でいじめられたって、絶対に身体に触れられること、傷つけられることがないのだ。だからこそ、強気にいじめっ子に立ち向かっていける。堂々と先生や親に助けを求めていい。みんなから無視されるかもしれない。としたって、絶対に物理的な痛みがないと保証されれば、堂々とした学校生活を送ることができる。

 

チンピラに喧嘩を売られても、絶対に口論までしかいかない。

※キャリーされて山中に埋められることは防げない。ただ、埋められても生きていられてしまう。死因は餓死になる。

 

逆に、キスはできない。

そういう時だけOFFにできたりできるといい。OFFにした瞬間に刺されたりしたら終わりだけども。

 

■お酒

お酒は、ほぼ絶対に4杯目からは飲んでも飲まなくても同じ。

もうアルコールは十分摂取しテンションがベストな高さまで上がってる。それ以降は惰性で飲料を高い値段で追加しているだけ。

名前

名は体を表す。名前負け。名に恥じぬよう~などなど、名前にまつわる慣用句は色々ある。

今日は名前について考えてみたい。

 

役所や病院で他人の名前を耳にすることがままある。この前は某旅行代理店であったが、隣の席で手続き中の男性は、漢字は不明だが、「アベ シンノスケ」と名乗っていた。隣で聞こえてしまった私は思わず横に巨人の四番が座っていないか確認を取ってしまった。

苗字のみならまだしも、フルネームすべて著名人と同一だと、名前から発せられるイメージに、自らが飲み込まれてしまわないか不安になる。巨人の四番なら、そのイメージが「責任感」や「決定力」や「強肩」など、プラスに働く要素が多いかもしれないが、以前同じ職場にいた先輩は、とある猟奇殺人犯と同姓同名であった。これは辛い思いをすることも多々あったであろうと同情する。

私なんかは、シュウヘイという名前をテレビで聞いたり本で出くわしたりすると、むずがゆい気持ちになる。最近だと野村周平という俳優がいるが、イケメン俳優であり「そうそう周平って名前はそうなんだよね~」となる。あまり周平にも中澤にもネガティブなイメージをもつ著名人は幸いいない。

自分が何かしらで将来有名になる際、すでに自分の名前と同じ人でめちゃくちゃ有名な人がいるか否かは結構大事だと思う。若手お笑い芸人で松本という名前の人がいたら、お笑い界での松本枠は完全に成約済なわけで、結構辛いと想像する。幸い中澤もシュウヘイも決定的な人材確定は成されていないように思われる。(リーチのかかっているレベルで、中澤はボンバーヘッドモー娘。元リーダーの強敵はいるが・・)

 

私だけでないと思うが、基本的に人は自分の名前は好きだと思う。慣れ親しみすぎて究極の愛着が湧いてしまうという感じか。私でいうと、「周平」はかなり好きだ。いそうで少ないし、「しゅーへー」の呼びやすさがあるし、「しゅうちゃん」「しゅうくん」等の派生もしやすい。「平」のもつ古風な感じと「周」というまろやかな響きが良い作用をもたらしている。(と勝手に思っている。)

 

できれば将来の自分の子供は、友人から「名前」で呼ばれる子になってほしい。小学生くらいは、みな共通して苗字で呼び合っていたが、中学・高校くらいになると名前の方が呼びやすい友人については、名前で呼び合う習慣へ変わっていく。

その際に、引き続き苗字で呼ばれる子の場合、得てして名前が呼びづらいか、苗字の方がキャッチーかのケースかだと思う。

なお、女の子同士なんかは親しくなりすぎて、一回苗字呼ばわりに戻るタイミングがある気がする。

 

〇〇顔なるイメージがある。例えば、ゆうすけ。ゆうすけは、各種漫画や有名人のイメージが先行して、やっぱりヒーロー感というか爽やか感というか主役感がある。そのイメージにドはまりしているゆうすけを見ると、「お前はゆうすけだな」と改めてかみしめる。

また、これは個人的な出会いが影響しているが、「あや」「あやね」「あやな」などは基本的に美人のイメージがつきまとう。「〇〇子」と最近では希少性のでてきた名前についても、その希少性ゆえに何か気に留めたくなる存在になる。

 

そう、これらの名前に対する個人的イメージは、保育園や幼稚園など社会との接点を持ち始めてからのち、さまざまな名前の人と出会い、各個人の「これまで会ったことある名前図鑑」が一枠ずつ追記されていくこととなる。

私で言うと30歳間近のタイミングで初めて橋本という友達ができたり、逆にナカジマという名前は各学校生活で必ず一人以上いたりして図鑑としては重複カードとなっている。将来各世代で出会ったナカジマ達を集めてナカジマの集いを開催したい。

また、あなたにとって「ナベちゃんとは?」と聞いたら、恐らくほぼ全員、自分のイメージする「ナベちゃん=ワタナベ」がいることだろう。

 

名前が無いとどうなるのだろう。

人物ではないが、聞いたことがある話で、「肩こり」がある。

日本では悩まされる人が多いこの生活習慣病も、フランスではそもそも存在しないという。

その理由は、「肩こり」という言葉が存在しないからだという。言葉が存在しない事象は、本当に存在しないことになるのだ。(フランス人は、それでもやはり肩に鈍痛がある場合は、なんと表現するのだろう・・)

「我思う故に我あり」みたいなことは難しくて考察ができないが、単純に人についても名前不在の状況があり得たらどうなるのだろう。

お互いを呼びづらいなど、実務的な弊害はいったん置いておいたとして、やはり自分が自分であるゆえんの「個別独特性」みたいなものは持ちづらい気がする。

犯罪者は監獄で数字やアルファベットで呼ばれるようだが、ものすごく自分の存在意義を薄められるだろう。

名前というキャンパスがあり、そのキャンパス上にみなそれぞれの色や絵を配置してきた人生なのに、キャンパス自体が消滅する感覚がある。

 

動物はどうだろう。

過去私は家族として2匹の犬がいた。(1匹はまだいる。)

よく散歩中に呼びかけてみる。「ラム」という名前なのだが、「ラム」と呼んでも振り向くが、「ハム」と言っても「たろう」と呼んでも振り返った実績がある。

動物に関しては、自分に対して発せられた音声に反応する、という感じなのだろうか。

少し寂しいが。

幼稚園から飼っていた犬は、そういえば一度改名させられている。ブリや落語家のごとく、

元々は「カール」だったのだが、我が家で引き取ったタイミングで、それこそ新たなキャンパス化を図るべく「パル」に改名。たまたま響きは近しかったが、ある日を境に名前の変更がされた愛犬はどんな心持ちであったのだろう。

 

キラキラネーム。

「キラキラネームはどうなんだ?」と世に疑問を投げかける人は、得てしてその名前をもつ本人とは直接関係性がない場合だと思う。第三者からみるから、キラキラ=けしからんと思ってしまう。

直接の友達や知人であったなら、初見こそ違和感があるかもしれないが、日数が経てば「たかし」や「さとみ」などと同様、その人を表すただの名前に過ぎなくなるだろう。

ただ、半濁音は入れないほうが良い気がする。苗字は基本的に変えられなく、日本人の苗字と半濁音は、牛乳と蕎麦感がある。

甲子園

お盆時期、久方ぶりに開催される家族親戚の集い。狭い居間で肩を寄せ合いながら団らんとなる。産まれたての赤子もいるし、各自の近況伺いなどで話題に事欠くことはない。されど、場の雰囲気へのプラスアルファとしてテレビをつけることとなる。

 

この状況でベストなのが、甲子園だ。

夏の風物詩であり、テレビ越しに甲子園のグラウンドからでる熱気と、球児の流す青春の汗が一瞬で伝播してくる。

 

時代は移ろえど、必ずこの時期には、純朴に頂点を目指し白球を追いかけるほぼ坊主頭の若者たちが全国各地に存在している。そして、その姿をNHKが中継している。その安心感と躍動感は、年に一度集まる家族の絆を、より一層強固なものに昇華させる雰囲気を持ち合わせている。

 

観るともなしに、テレビからアルプス席の歓声が小さなボリュームで聞こえる程度でも良い。高校野球マニアのおじさんでない限りは、中継される一球一球を目で追う必要はない。

 

そこに、高校球児が炎天下の中、青春を謳歌してさえすれば良いのだ。お盆を、いつものお盆にしてくれるだけで良いのだ。

 

もし自分がバッターボックスに入ったら、自分のために編曲された応援歌をなるべく聞きたいので、3球目までは見逃すと思われる。最悪三振してまうが。

 

グラフィック技術があったら

東京都心で日中、どれだけ人が存在しているか建物など障壁物を全て消し去った状態の3Ⅾグラフィックを見てみたい。

高層ビルなんか空に向かってどんどんどんどん人がうじゃうじゃ積み重なってる感じなんだろうな。

そして東京のアップが終わった後、引きで関東、日本と同じように表現して欲しい。

いかに東京都心に人がギュッてなってるか恐ろしい絵ができそう。

大仏

とある環境の変化が重なった際、思い立って鎌倉の大仏を観にいこうと決心した。

幸い鎌倉駅までは電車で15分程度の住まいであったため、最初は近いし行ってみるか程度の心持ちだった。

電車で本を読みながら半分寝そうになりながら鎌倉駅に到着すると、「高徳院こちらへ」の看板が掲げられている。鎌倉にはその他大勢の寺社があるので、特別大仏がフィーチャーされている感じではない。前に行ったのは確か5~6年前であったから、徒歩で行ける距離なのかバスに乗るべきなのか判然としなかったが、時間も持て余している身であったため歩くことを決意。

 

その日は7月初旬、気温は30度超えの快晴。猛暑なのか普通の夏日なのか、どの言葉が当てはまるのか不明であったが、Tシャツ短パンリュックサック姿で大仏に歩を進めるのも勝手に趣を感じたところであるので爽やかな心持ちであった。

 

さて、その日は平日であったので高徳院こちらへの看板に従って歩みを進める同志はほとんど見当たらない。炎天下の中、脇を車が通り過ぎる以外は静寂と言っていい状況でひたすらやや上り坂を進む。途中2回ほどトンネルを潜り抜ける。その切り立った山の底を歩く若干の恐怖と、トンネル内特有のひんやりとした肌感を感じながらもくもくと進んだ。

 

なかなか高徳院っぽさや大仏っぽさが現れない。平日だからかもしれないが、わいわいと観光地じみた喧噪も現れず、じっと炎天下を耐え忍ぶ家々が林立する住宅街に突入していくのみ。看板の指示に従っているため、方向が誤っている可能性はほぼ無いのだが。

 

私はスマホで地図を確認し、自分がどの位置にいるのか、あと何分くらいで到着するのか確認する手段を持っていた。しかし、ここでスマホには頼らないと決めていた。その理由がなんであったか。漠然とであるが、大仏に辿り着く過程を文明の利器に頼ってはいけない。自らの判断・脚力でのみ到達すべき。という謎の信仰をもってしまっていたのだ。

 

かなり不安になる。昔の人、特に思い浮かべだのは大河ドラマで取り上げられがちな江戸時代の人だが、目的のお屋敷や寺院へ向かう際、初めての道中であったならさぞ不安になるだろうなどと考えていた。私はいざとなればスマホに頼ることができるが、当時の人は地図らしきものは持っているだろうが、一度迷い込んだ自分の位置を衛星から確認させることなどできない。

 

自分を江戸時代へセルフタイムスリップさせ不安を抱えながらひたすら大仏を目指した。

 

心境の変化がある。すごく、大仏に会いたい。大仏様にお目にかかりたい。もはやお救いください。あぁ、大仏様。ここまでいった。先人たちが仏教や自分の信仰する宗教の偶像たる銅像や石造に参る際、このような心境になったのだと想像した。そこにあるのはいわゆる物理的な建立物であり観光客にとっては名物スポットなだけで、さして重要な意味づけはないのかもしれない。だが、私の中では「鎌倉の大仏」を超え、「精神の支え」にまで昇華していた。

 

ここを右!の最後の看板を右折すると、ようやくそこに人込みが現れた。どうやら鎌倉駅からの裏道を通ってきたイメージのようで、なかなか観光客に出くわさなかったわけだ。

 

拝観料を払い門をくぐり抜けると、紺碧の空を背景とし、徐々に大仏様のお姿が現れる。ようやくお会いすることができた。めちゃくちゃ不安だった私の心は、大仏様のご尊顔を観るといっきに癒され、大仏様は「待っておったぞ」とお声をかけてくださっている感覚があった。

 

但し、いったん道中で尿意を催しておりトイレに行かせていただいた。頭出しご挨拶をし、トイレに行き、整ったタイミングで再度正式にご挨拶。

 

青空澄み渡る天候のもとで大仏は微笑んでいるように見えた。雨の日も風の日もこんな炎天下の日も、大仏は動くことはできない。大仏を囲う防御壁もなく、ただそこに居続ける大仏。

本来、宗教的意味も様々あるのだろう。決して私はそれらを理解していない。ただ、一介の市井たる私にとっても、大仏が鎌倉に腰を据え、軸で居続けていることが、何か精神的な安定をもたらしてくれていると感じるのであった。

 

また、周囲は外国人観光客が写真ラッシュをかけていた。全員遠近法を利用した手のひらに乗せてみるアングルで撮影を試みていた。鎮座していらっしゃるところに重みがあると感じていた私は、手のひらサイズにしたら良さ消えてまう!と忠告したかったがしなかった。