身体感覚①

炎天下の建設現場。蝉の声すら認知できないほど朦朧とする意識の中で、サイズの合わないヘルメットの内部は極限の湿度まで高まっている。単身世帯用アパートメントの3Fまで、背丈の1.5倍は長い木材を抱えながら、狭すぎる通路を往復する。次の一歩を踏み出す左脚の感覚が鈍り、資材を抱える両二の腕がバイブレーションを起こす。頭上には同時現場となった壁紙職人が敷設した古びた裸電球がゆらゆらとぶらさがっている。3Fまで運び終えると、さながら競泳選手が壁をタッチしたのち一瞬たりとも止まらず折り返すように、俺も階下へと駆け降りる。

 

俺が見えている世界。

眼下に続く下り階段。体を折り曲げなければ接触する裸電球。滴り落ちる汗。いつまでも舞い上がっている謎の粉塵。とにかく次の資材にたどり着くこと、その一点のぶれない意識。

今はどんな文化的な記憶も理想も選択肢もない。身体がそれらを雑念と位置づけ、その雑念を拒否している。はやく、次の資材を運ぶのだ・・!

 

というような仕事は世の中にはある。

その仕事に携わった期間の長短により慣れと技術に差はあれど、物理的にモノを運び・壊し・打ち付ける等を担う職は21世紀でも健在だ。健在どころか残り続けるのは得てしてこういう仕事なのかもしれない。

極端に表現すれば、彼は死ねる。文字通り、死ぬことが可能。なお正確に表現すれば、死ぬことがたやすい状況にある。230cmほどの資材を背中にかかえ上下階を往復していれば、その一歩を間違えば資材の重みの下敷きになり、致命的な一撃を受けかねない。彼はこの仕事に携わりまだ一週間。恐らくビギナーが一番死にやすい。

 

彼はやり終えた。自らの”まだ死にたくない”という根源的欲求というか動物的本能というか、無意識な魂がむき出しになり、次の一歩を正解し続けた。

彼は現場の最寄り駅まで歩く。喉がからからに乾いている。コンビニに入り店員といちラリーでもコミュニケーションを図る気力も体力も尽きている。自販機を探す。しなびた自販機を発見する。爽健美茶午後の紅茶・オレンジ風味のいろはす。これらには目もくれずポカリスウェット一択。

極限まで追い込まれた人間は、カフェインがどうとか軟水を使用してますとか、どうでもいい。義務教育開始と同時期に染み付いた、肉体的に乾きを覚えた際はポカリスウェットという条件反射に従うことしかできない。一本目をほぼ一気飲みし、二本目をすぐさま買う。小銭がなかなか掴めないほどに、指先の筋肉が震えていた。

 

~1時間後~

 

意外とすぐ回復した。ふ~。

そのまま家に帰るのもどうかと思い、得意のルノアールでアイスコーヒー水だしをちょびちょび飲みながら思いにふける。

あの時俺は、常軌を逸していたと思う。実際に常軌を逸するか否かの選択に迫られなかっただけで、俺が死なないか死ぬかの選択に関わるノイズがあれば、そのノイズをいかなる理由であれ発した奴を突き落としていたと思う。突き落としていたし、あのタイミングで昨日のドラマの感想など聞かれた日には発狂していたかもしれない。あらゆる文化的な思想など俺の身体から消え去っていた。

所詮、文化的な、現世に言う人間的な、そして豊かな、なるものはその次の一歩を踏み外したら死ぬ人間の前では無力だ。そんなものはこの世には無いのではなく、そういう人間からしたら、存在するか否かの問いすら無いのだ。

この道数十年とおぼしき職人は、流行りの電子タバコの銘柄を同僚と論議しながら資材を運んでいた。そう、俺が言いたいのはこういう仕事はうんぬんではない。個人の技量がどうこうでもない。俺個人という身体がそう捉えていたというただその事実だ。

 

日大アメフト部問題。あえての。

至極自明なことだと思う。至極人間的な危機回避なのだと思う。何も文化的な判断ができる次元であったわけではない。彼は人間としてもっと自律すべきだった等の批判は、彼が直面していた問題とレベル感が異なる。

自身にとり完走できるか否かぎりぎりの距離をマラソンしているとする。あと200メートルが死ぬほど遠いと感じるあの感覚。肺が悲鳴をあげており手足がマネキンのように感じるあの感覚。これまで学んだ全教科・家族を含むすべての人間関係が意識から飛ぶあの感覚。精神的な面で言えば、何を言っても相手から「否」で返されるとき、選択肢を事実上ひとつにしぼりこむ条件提示を執拗にしてくる上司・恋人に対面したとき。精神は肺と同様悲鳴を上げる。

そんな感覚の折、相手選手の行く末・母校のチーム存続の今後・世論の受け止め方なんて考えられるわけがない。ただ目の前の、死なないために次の一歩をいかに踏み外さないか、それしか見えない時があり得るのだ。

この感覚から帰結する結果についてのいかなる批評は、意味をなさない。世間的には意味ある見解でワイドショーが終わったとしても、次に追い込まれる人間がでてきた際に、何の予防策も提示しない。

 

だから、彼があの事件発覚後、何週間後に謝罪をしたってしょうがない。しょうがないというか、本質を突き得ない。

松本人志が言っていたように、酔っ払って事件をおこした人が何日か後しらふの状態でもう二度とやりませんって言ってもしょうがないというのは真理だと思う。酔った状態でなお、今後はやりませんって言わないと意味がない。だって、置かれている身体的危機感がその時と後日とでは違いすぎるから。追い込まれた人間は、あらゆる文化的見解なんて選択肢として上がらない。

 

つまり、文化的な判断ができなくなる前に休憩をとる制度を採用したほうがいいとか、精神的に弱い立場の人間を追い込まないほうがいいとか、そういう安易な対策は本質を射た議論ではないということだ。

リスクというか、本来一番腹落ちしなければいけない、人間としての性質を再想起することが現代においては重要だということだ。

人間は動物だから、”やばい死んじゃう”とか、”いったん止まりたい”とか、”3秒後生きてたい”とか、そういうレベル感が最終的にある。そのレベル感に達した人間はもう止められない。

文化的な理論とか制度とか救済策とか、人類は進化しているから認める方向でいきたいけど、そうやって自尊心を高めていきたいけど、それは身体的な感覚を無視していい免罪符にはなり得ない。

泥臭い、過呼吸気味の、ポカリにただすがりつくことしかできない人間がふと目の前の建設現場にいることを想像できないと、脳みそだけでかくなった顎が逆三角形の宇宙人になってしまう。