身体感覚②

世の中にはいろいろな尊敬の形、尊敬する分野、尊敬の表し方があると思う。

仕事ができる上司・先輩の姿を見て尊敬し、自分の趣味の分野で大成している人を見て尊敬し、尊敬するがゆえに真似をしたり従順になったりその人の本を買ったりする。

 

生まれてこのかた、誰をどんな順番でどんな理由で尊敬してきただろうと思い返す。

物心つかない時は、無かった。少なくとも意識的には尊敬の感覚すら存在しなかった。親兄弟が自分の生を成立させてくれているという意味では、振り返って尊敬が止まないが、当時の感覚ではない。

幼稚園、小学校低学年でも同じような理由で思い浮かばない。

中学年、高学年となってくると、現れたきたように思う。板書がことごとく上手い先生や、自分ができない教科で満点を取る同級生、また同い年にして学校以外のコミュニティで年齢の違う友達を作っている三輪くん。この頃は、「尊い」「敬いたい」といった感覚ではなかったが、とても近いニュアンスで「憧れ」であったのだと思う。

「被・尊敬」という意味ではどうか。わからない。わからないなりのぼんやりとした回想だと、定番の足の速さ・背が高いこと・犬を飼っていることなどで、「うらやましい」という言質まで確認できていた気がする。

 

中学校・高校・大学の世代では、尊敬の形も分野も表明のし方も、各個人のバラつきが出てきたように思う。

引き続き、「身体」としての顔や背や運動能力を尊敬(=憧れ)の対象とする感覚は持続していた。

 

一方で、同い年にしてすでにある特定の分野に深く没頭している人を見ることでも、尊敬を感じていた。ほぼ同じ時間生きているはずの彼・彼女は、とあるタイミングでその分野と衝撃的な出会いを果たし、エネルギーをほぼその一点に効率的に注いでいる。そんな友達の話は聞いていておもしろかったし、尊敬したし、まだ出会いが無い自分は焦りを感じていた。

 

振り返って尊敬していた人を思い出すことは、当時の嫉妬やイラ立ちの感覚を連想するのが良いのかもしれない。

テストの点数で負けるとか、バスケの試合で負けるとか、すでに彼女がいるやつを妬むとか、今思い返せばあいつの努力や才能は尊敬できた、とか思えるけど、それがまだ嫉妬やイラ立ちだった頃は、尊敬と正反対の感情であったように思う。振り返りあっぱれであった、という感じ。

 

学生時代から今に至るまで、圧倒的に尊敬する分野がある。「お笑い」ができる人。ここでは、いわゆる職業としての漫才師やコメディアンという意味ではない。クラスや部活や配属部署で、何をどう語らせてもこの人の発言にはプラスの意味の笑いが宿る人がいる。義務教育をどう振り返っても「お笑い」は必修科目にはなかったし、今もなお「センス」という言葉と繋がりが強いし、そもそも社会において「お笑い」がいかに重要かを丁寧に説明されたことがないのに、自然とできる人たちがいるのだ。

各組織に存在するこの「お笑い」の担い手は、様々なタイプがいる。力技で笑いをねじこむ力士タイプの人もいるし、場の空気の一瞬の間をつかみ的確な比喩を打ち込むスナイパータイプとかもいる。とにかくこれを身につけている人に出会うと、尊敬もするし茫然ともするし、出会えてよかったなと思うし、普通に一緒にいて笑えて楽しい。その人は本質的に成長させてくれる人なのかとか、うわべだけのコミュニケーションなんじゃないかとか、そういう見解もあるけれど、その見解はレイヤーが違う感じかな。身体感覚として笑ってしまうのは間違いなく"本当"だし、居心地がいいんだもの。

私で言うともう少し飛躍してしまい、笑いのタイプに差はあれど、笑いを提供できる人は絶対的に頭がいいと思ってしまう。つまり、本人が意識的か無意識的にか、この事象ってこういうことじゃないの?とか、ここはここの点が実はつっこみどころなんじゃないか?とか、これってもしかしてこれに似てるんじゃないか?とか、何気なく流れている会話の中から、笑いの起こり得る原石に「そもそも気づく・掘り起こす・他の石と比べる」ことができる。そして、これだけでは成立しなくて、そのポイントを的確に、選抜した相手に対し、絶妙な声量とワードで発信できるわけだ。この発信上手な人は、例えば20人くらいで行う会議で隣に座られると、きつい。披露宴の同卓でもいい。いかにジョークは禁止の空気感の会議だったとしても、私というピンポイントに狙いを定め、ささやきの一撃を放ってくるからだ。こういう人は、これは20人全員に発信しても微妙な空気になることも備わった感性で察知している。あえて一人一殺に集中できる、アサシンタイプなのだ。

この原石探しと狙撃手としての腕前が両立していることは、意図的であればあるほど「頭がいい」と思う。私はで言えば、それに対して尊敬の念を抱く。

 

社会人、仕事に従事するようになってからはどうだろう。(すみません。経験上、仕事=事務職的なことを前提とします。)ここでは、学生時代に核となっていた身体的な側面での尊敬は、相対的に押しやられてくるように思う。代わりに、いわゆる「従事しているところの仕事ができる」ことへの尊敬が割合をあげてくる。段取り力・渉外力・マネージメント力・決断力などだろうか。ここは否定できない。自分がその仕事に従事している以上、必要とされる様々な武器を身に着けている人たちであり、尊敬しないという方が難しい。

一方で、仕事面では尊敬できるけど、人間的には尊敬できないという感覚がしばしば登場する。これもあり得ると思う。仕事以外の時間で過剰なまでに尊大な態度をとる人とか、酒を飲ませるとやばいとか、家庭がぼろぼろだとか。こうなってくると、本来率直に感じるべきである尊敬という感覚が、ややこしくなってくる。それでも総合点として尊敬している場合は、無意識的に、意図的な尊敬にシフトしているのだと思う。

 

ふと思う。いつからだろう。学生時代、花形はやっぱりドがつく現場だった。現場と言うのはつまり、物理的な意味での存在そのもの・物を自在に動かすこと・物を自在に変形、発生させること、などの身体的な活動に直接的に関連する分野だ。顔立ちがいい・足が速い・力持ち・歌がうまい・絵がうまい、など。自分そのものである「身体」もしくは「身体による活動と直接的に結びつく結果」を輝かせている人は魅力があり、同じ四肢をもつ人間として圧倒的に平等なのに、差がつくから、その差分が尊敬に昇華するのだ。素直に、優劣があるのだと思う。

 

もう少し大人になってから登場する、みんなでバーベキュー。ここでも花形は、やはり野菜を刻み、火を起こし、鉄板の前から死んでも離れないタイプの人であり、ド現場こそ、みんなが目指したい尊敬のポジションにあたるのだと思う。火の粉が飛び散る中、苦し気な表情をしながらもな肉の焼き加減に集中できること。適切なタイミングで風を起こし炭に当てられること。やはり圧倒的に身体そのものと密接な活動をしており、バーベキューの日程調整・場所の予約・清算を担った「現場という意味での裏方」よりは注目される。

 

しかし、会社に入り、より上流の仕事や第三次産業的な分野に従事すると、身体での活躍はさほど必要ない。打合せにいく道中、駅の階段をたくましく一段飛ばしで駆け上がる上司は求めていないし、達筆な議事録も大事なのはそこじゃないと一蹴される価値観が多めだろう。むしろ、身体的には圧倒的に平等もしくは若さゆえに自分の方が細胞レベルで優位な状況だとしても、いかに短時間で資料を作れるかとか、発注先に冷徹な期限を設けられるとか、そういうスキルが求められており、細胞レベルはあまり関係ない。

 

良いことなのだと思う。結局、身体感覚に共鳴するか否かで尊敬の有無を決めるということは、言ってみればホモサピエンス時代の発想なのかもしれない。高度な文明へと発展を遂げた今は、かつては埋没していた能力が必要とされ表明できるようになったという意味で、尊敬の対象としての多様性も広がり、人類全体として進化を遂げているのだと思う。

 

ただ、スポーツ選手やものづくりの職人や、歌手や、「身体のみで優位を表明できること」に対する尊敬は、今後も消えないことだけは間違いないと思う。消えないし、私個人で言えば、その優位性に対する尊敬は、四肢を使う人間である以上、常に最上位かな。

そして、「お笑い」ができる人も。物理的な行動という表現とは違和感があるが、基本的にやはり生まれついた身体のみからの発信を行っているという点で、"同じ四肢をもつ人間として圧倒的に平等なのに、差がつくから、その差分が尊敬に昇華するのだ。"なのかな。